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「【小説】巨大新聞社の仮面を剥ぐ 呆れた幹部たちの生態<第2部>」第52回

もはや言論人は存在しない巨大新聞社…唯一の例外“新聞業界のドン”は政界のフィクサー

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「Thinkstock」より
【前回までのあらすじ】
 業界最大手の大都新聞社の深井宣光は、特別背任事件をスクープ、報道協会賞を受賞したが、堕落しきった経営陣から“追い出し部屋”ならぬ“座敷牢”に左遷され、飼い殺し状態のまま定年を迎えた。今は嘱託として、日本報道協会傘下の日本ジャーナリズム研究所(ジャナ研)で平凡な日常を送っていた。そこへ匿名の封書が届いた。ジャーナリズムの危機的な現状に対し、ジャーナリストとしての再起を促す手紙だった。そして同じ封書が、もう一人の首席研究員、吉須晃人にも届いていた。その直後、新聞業界のドン太郎丸嘉一から2人は呼び出された。

 「まあ、待てや。わしの話を聞け。わしは、これからジャーナリズムを殺さんためにじゃ、本気で動こう、思っちょる。そのためにはな、記者の能力がある若い奴が必要なんじゃわ」

 深井宣光の発言を制するように、太郎丸嘉一は両手を上げ、説明を始めた。

 「うちにはお主らのような奴はおるが、わしが動きよる以上、国民の連中は使えんじゃろ。それで、大都、日亜の両社にいい奴はおらんか聞きよった。そうしたら、お主らがいい、というんじゃ。若い連中のことはほとんど知らんのじゃが、わしの耳にもお主ら2人の名前は入っちょった。それで、お主らを呼びよったんじゃ…」

 黙って突き出しを摘まんでいた吉須晃人が遮った。
 「でも、僕らに何をやれ、というんですか」
 「お主らの政界、官界、経済界の人脈に、わしの頼むことを働きかけてほしいんじゃ。お主らが相当な人脈を持っちょとって、彼らの信頼も厚いのはわかっちょる」
 「何を言うんですか。僕らの人脈など、会長に比べたらどうってことないですよ。何の役にも立たないし、やる気もないです。捨てちまったんですよ。深井君、そうだよな」

 深井は戸惑った。自分の人脈に自信があるわけではないし、もう縁を切りたいという気持ちでもあった。吉須の言う通りだったが、「捨てちまった」という表現が少しひっかかった。苦笑いを浮かべただけで、突き出しの残りに箸をつけた。

 「吉須君な、わしといくつ違う? 20歳違う。人脈ったって、自ずと違ってきよるんじゃぞ。わしの人脈の連中から、お主らの名前は聞くんじゃよ。じゃが、うちの連中の名前は挙がらん」
 「そんなこと言われても、政界、官界、経済界の人脈は会長がすべてでしょ。僕らの人脈はその下ですよ。会長が自分で動けば、事足りるじゃないですか」

 黙っている深井を尻目に吉須が反論した時、引き戸が開き、仲居が入ってきた。懐石料理で先付けの次に出す「煮物椀」と一緒に熱燗2本と生ビールを運んできたのだ。

●社会民主主義に傾倒し、リベラルなジャーナリストに

 明治以来、戦前まではもちろん、戦後も四半世紀前までの日本には著名な言論人が存在し、政治経済を含め社会全体に一定の影響力を持っていた。今の大手新聞3社には、そうしたジャーナリストはもはや存在しないと言ってよいが、唯一の例外が太郎丸である。巷間、太郎丸は“新聞業界のドン”と喧伝されているが、“政界フィクサー”という渾名で呼ばれることも多い。この点が四半世紀前までの言論人との違いといえるだろう。

 大手新聞3社の経営者の中で、苔が生えたようなリベラリズムとはいえ、明確な主義主張があり、論陣を張る人物が太郎丸だけなのは確かだ。だが、太郎丸は言論で社会を動かすよりも、政官界の水面下で根回しに動き、政策決定に関与しようとする傾向が強い。明治、大正、昭和初期までは太郎丸と似たようなジャーナリストがいたが、戦後はフィクサーのような役割を果たす者は太郎丸のほかにはいない。ではなぜ太郎丸がそうした“異色の言論人”になったのか。それは彼の経歴と無縁ではない。

 太郎丸が東大法学部を卒業して国民に入社したのは昭和29(1954)年。学生時代は社会民主主義思想に傾倒、共産党と一線を画したその運動にも参加した。それもあって、太郎丸は東大法学部卒のエリートが目指す官界や経済界には就職せず、マスコミ、そのなかでもリベラル派の牙城といわれた国民でジャーナリストの道に進んだ。

 今の大手3社では、新人記者は5年ほど地方支局で修業させた後、一人前の記者として中央の政治部、経済部、社会部で活動させるという慣行が確立しているが、太郎丸が入社した当時は日本が戦後の混乱期からようやく脱したところで、入社するとすぐに記者として東京で仕事をさせられた。

 太郎丸の場合、学生時代から社会民主主義運動にかかわっていたことから、政治部で野党担当として記者人生のスタートを切った。朝鮮戦争を機に東西対立の冷戦時代が始まり、米国の事実上の支配下にあった日本では保守陣営が大合同、日本自由党を結党し、政権与党の座に着いた。当然、野党は左翼系の政党だった。

 大手新聞の政治部記者のエリートは自由党を担当し、その派閥の領袖たちに食い込んでいる記者であるのが普通だった。つい最近まで自由党が一貫して政権の座にあったからだ。しかし、太郎丸は記者人生スタートの時点から異色だった。

 太郎丸は自ら、根っからの社会民主主義者であることを公言していた。加えて、左翼系の野党を担当したわけだから、万年野党第一党と揶揄された社会大衆党や野党第二党の社会民主党との首脳と親密な関係を築いた。今の政権与党の民主社会大衆党(略称:民社党)は二大政党制の実現を目指して、こうした左翼系の政党と自由党からの離脱組が一緒になって10年前に発足した政党だ。太郎丸の人脈が民社党内に広く根を張っている所以(ゆえん)だった。

●政官界に太いパイプ

 煮物椀などを運んだ仲居が部屋を出ると、太郎丸は熱燗を取って吉須に酌をした。
 「深井君は2杯目の生ビールでええな?」
 「ええ、いいです」

 吉須がもう1本の熱燗を取り上げ、太郎丸のお猪口に酌をしようとすると、太郎丸は手で制した。太郎丸は手酌し、ぐいと飲み干した。
 「さあ、お主らも飲んで食べよってくれや」