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「【小説】巨大新聞社の仮面を剥ぐ 呆れた幹部たちの生態<第2部>」第62回

中断していた巨大新聞2社トップの不倫暴露作戦再開~“新聞業界のドン”からの呼び出し

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「Thinkstock」より
【前回までのあらすじ】
 業界最大手の大都新聞社の深井宣光は、特別背任事件をスクープ、報道協会賞を受賞したが、堕落しきった経営陣から“追い出し部屋”ならぬ“座敷牢”に左遷され、飼い殺し状態のまま定年を迎えた。今は嘱託として、日本報道協会傘下の日本ジャーナリズム研究所(ジャナ研)で平凡な日常を送っていた。そこへ匿名の封書が届いた。ジャーナリズムの危機的な現状に対し、ジャーナリストとしての再起を促す手紙だった。そして同じ封書が、もう一人の首席研究員、吉須晃人にも届いていた。その直後、新聞業界のドン太郎丸嘉一から2人は呼び出され、大都、日亜両新聞社の社長を追放する算段を打ち明けられる。しかし、その計画を実行に移す直前に東日本大震災が起こった。

 日本ジャーナリズム研究所会長の太郎丸嘉一から、首席研究員の深井宣光の携帯電話に連絡が入ったのは5月11日、水曜日だった。その日はなんとなく気分の滅入る空模様で、終日雨降りだった。太郎丸の声を聞くのは2カ月ぶりのことだ。大地震の直前に電話を受けて以来だった。

 史上空前の大地震が起きたのは3月11日午後2時46分である。その数分前にかかってきたのが太郎丸からの電話だった。その時、深井は日比谷公園にいてすぐに大地震を感じ取ることはできなかった。だが、電話の向こうにいる太郎丸の切羽詰まった反応で、日本が巨大地震に襲われている現実を感じ始めた。

 そして、資料室に戻って目の当たりにした大津波のテレビ映像で、少なくとも今生きている日本人が誰も体験したことのない大地震なことを思い知った。さらに、夜になって、福島の原子力発電所で、昭和54年(1979年)のスリーマイル島原発事故、61年(86年)のチェルノブイリ原発事故に匹敵する大事故が起こっている現実に震え上がった。

 どれほど多くの日本人がこの災厄で“不条理”な死、そして、想像だにしなかった境遇に追い込まれたのか―。

 太郎丸から電話のあった5月11日付朝刊には死者・行方不明者2万4829人と載っていた。前日の10日午後に原発の半径20km圏内の「警戒区域」にある村の住民たちが防護服と線量計を着用して一時帰宅、久しぶりの我が家から夏物衣類などを持ち出す様子も大きく伝えられていた。

 福島原発の重大事故は何とか収束の方向にあるようだが、まだ予断を許さない状況だった。それだけではない。周辺の住民が大地震の前の、元の生活に戻ることは10年、20年後でも不可能なのは誰の目にも明らかだった。それでも、「人の噂も75日」という。新聞、テレビ、雑誌のマスコミの姿勢も徐々に変わってくる。大地震関連の報道で埋め尽くされていたマスコミの対応も段々平時に近づいている。人間とはそんなものであり、マスコミの姿勢の変化も当然と言えば当然なのだ。

『75日』にはまだ半月あったが、日本全体が落ち着きを取り戻しつつあったのは否定できない。太郎丸から深井へ電話は午前10時半過ぎだった。

×××

 深井は午前10時頃には自宅マンションを出るのが慣わしだったが、大地震を境に、ジャナ研資料室に出勤するのは昼過ぎ、遅い時は午後1時近いこともあった。日亜新聞から伊苅直丈という鼻つまみ者が出向してきた4月以降、週1、2回は出勤しないこともあった。