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“若者に強い”伊勢丹、どのようにつくられた?功労者の元カリスマバイヤーが死去

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伊勢丹新宿店(「Wikipedia」より/Kakidai)
 結いの党参院議員の藤巻幸夫氏は3月15日、出血性ショックのため死去した。藤巻氏は伊勢丹時代に“カリスマバイヤー”として知られた人物であり、54歳の若すぎる死に流通業界からは藤巻氏を悼む声が上がっている。

 藤巻氏が伊勢丹に入社した経緯は一風変わっている。ファッションマニアを自任していた彼にとって、東京・新宿は汚い街というイメージがあり、百貨店は日本橋の三越と高島屋しか行ったことがなかった。上智大学4年生の9月、たまたま飲み会の待ち合わせ場所が新宿伊勢丹本店のそばで、店内に入ってみるととてもおしゃれで、化粧品売り場に並ぶ容姿端麗な女性店員たちにも惹かれた。そして、「ここで働いて一番になりたい」と思った。

 1982年、藤巻氏は新卒で伊勢丹に入社したが、当時、伊勢丹は2000人以上が応募して70人しか採らない狭き門。藤巻氏は採用面接で志望動機を聞かれ「女の子と友達になれる」「百貨店って毎日宴会みたい」と答え、社長ともう1人の役員が「あの変わった奴を入れておけ」と推したことが勝因だった。

 藤巻氏はいきなり頭角を現したわけではない。最初に配属されたのはヤングスポーツという2階のバーゲン会場だった。キュロットとキャロットの区別がつかず、キュロットをニンジンと勘違いして上司に怒鳴られたこともあったという。ここでファッション業界のイロハを徹底的に鍛えられた。朝は倉庫整理、昼はバーゲン会場、夜は遊ぶ。毎日2~3時間の睡眠時間で、25歳の時、ヤングスポーツのアシスタントバイヤーになった。

●逆境乗り越え、大ヒットの売り場を連発

 藤巻氏に転機が訪れたのは29歳の時だ。伊勢丹は89年、高級ブランドや新進ブランドを扱う専門店として急成長していたバーニーズ・ニューヨークと独占提携を結び、子会社のバーニーズ・ジャパンを設立した。1号店の創設メンバーに選ばれた藤巻氏は、バーニーズ・ジャパンのレディスバイヤーとしてバーニーズ・ニューヨークに出向。90年11月、国内の1号店となる新宿店がオープンした。

 バイヤーの武器は目だ。華やかなパリコレや世界のマーケットに行って、好きなファッションを買い付ける。藤巻氏は米国人の上司から「君は世界でも通用するだけの感性と美意識を持っている。アメリカに来たらどうか」と誘われたほど高評価を得たが、有頂天になりすぎ、勤務態度が悪く、ロンドン出張中に帰国命令が下った。結局、3年で出向を解かれ、バイヤーとしての職を失った。一時は退社も考えたが、事務の閑職に回され、そこで「解放区」の構想が浮んだ。

「解放区」とは、新しい日本人デザイナーの作品を集めた売り場だ。新人デザイナーを全国から探し出し、この人たちを集めて売り場をつくったら、新しい文化が生まれて伊勢丹は変わるかもしれないと考えた。この企画書を直属の上司を飛ばして役員の武藤信一氏へ持って行き、「僕にこの売り場をください」と嘆願した。94年、藤巻氏がプロデュースした「解放区」は大ブレイクし、菱沼良樹氏、清家弘幸氏といった若手デザイナーのアピールの場となり、「伊勢丹に藤巻あり」といわれるようになった。