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江川紹子の「事件ウオッチ」第26回

両陛下ご訪問で注目のパラオ・ペリリュー島とはーー人々に意味のない死を強いた戦争の現実

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戦争の現実をまざまざと突きつける、NHKスペシャル『狂気の戦場 ペリリュー~“忘れられた島”の記録~』。現在はNHKオンデマンドで視聴できる。
 天皇・皇后両陛下の「慰霊の旅」で、アジア太平洋戦争末期に激戦が行われたパラオ・ペリリュー島の存在は、一挙に日本国民の誰もが知るところとなった。戦死者は日本軍が約1万人、米軍は約1700人。「太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならない」との天皇陛下のメッセージは、多くの人に伝わったといえるだろう。戦跡を見学するツアーがにわかに人気を集めている、との報道もあった。戦後70年という節目の年に、多くの人がこの戦いに関心を持ち、そこでの犠牲者をしのぶ機会をつくられた両陛下の功績は大きい。

戦争のむごたらしさを映しだした『Nスペ』

 ペリリュー島の戦いがあったのは、すでに日本の戦局が悪化していた1944年9月15日からの70日間余り。日本軍が、それまでの自決覚悟で一斉突入して玉砕する“バンザイ突撃”をやめ、持久戦で時間稼ぎをするよう方針転換がなされた最初の戦いとなった。兵士らは塹壕に潜んでゲリラ戦を続け、約1万人が亡くなった。最後まで戦って生き残った日本兵はわずか34人。米海兵隊の死傷率も、史上最も高い約60%に上った。その犠牲の多さと過酷さから、ほとんど語られることのない、「忘れられた戦い」となっていた。

 各メディアとも、この戦いを生き抜き95歳の体を押して両陛下の慰霊に立ち会った元兵士の話や、今も残る塹壕の映像を紹介して、「壮絶な白兵戦」(4月4日付朝日新聞)、「凄惨な戦い」(9日付毎日新聞)、「過酷という言葉では表現できない戦い」(9日付読売新聞夕刊)のありさまを伝えようとしていた。ただ、その過酷さを具体的にイメージできるように伝えるのは、なかなか難しい。

 昨年、NHKがこの戦いを撮影したフィルム113本を米国立公文書館などで見つけ、両軍の元兵士らへのインタビューと併せて、ドキュメンタリー番組として放送した。約13時間の映像は、米軍のカメラマンたちが撮影したもの。銃弾が飛び交う接近戦の状況や、死傷した両軍兵士の姿、さらには当時は最新兵器だった火炎放射器で日本兵が籠もる塹壕を焼き尽くす様子なども、カラー映像で映し出された。この番組『NHKスペシャル 狂気の戦場 ペリリュー~“忘れられた島”の記録~』は、今でもNHKのサイトから見ることができる(視聴料は3日間で216円)。

 今回の両陛下のご訪問を機に、あらためて番組を見た。活字メディアや現在の映像ではなかなか伝わりにくい、戦争のむごたらしさを映し出した映像には慄然とさせられる。双方の軍人の死体、死体、死体……。すでに戦える状態でなくなった日本兵にも、容赦なく銃弾が撃ち込まれた。放置された日本兵の遺体にハエがむらがる。映像が映し出すこうした状況は、しばしば戦死を表現する時に用いられる「散華(=花と散る)」という美しい言葉とはほど遠い、無残なものだ。

 恐怖のあまり、精神状態がおかしくなった米兵の姿も映されている。精神が錯乱して大声を上げた兵士が、相手方に居場所を知られてしまわないよう、味方に射殺された、と語る元兵士がいた。手足を縛られ、自軍に殺害されたと見られる日本兵の遺体もあった。投降しようとして殺されたらしい。「投降は許されなかった」など、そうした制裁があったことを裏付ける日本兵生存者の証言もある。こうした映像や証言は、どれだけの費用をかけてつくった映画やドラマでも、とうてい伝えきれないほどの衝撃力を持っている。映像の力と体験者の証言の意味をあらためて感じさせられる番組だった。

 ペリリュー島には東洋一といわれる飛行場があった。アメリカ軍が攻撃を始めたのは、フィリピン奪還のため、日本の抵抗を排し自軍の拠点にすることが目的だった。最初は3日もすれば、日本軍は“バンザイ攻撃”で全滅するとふんでいたが、日本側がゲリラ戦で抵抗したため、過酷な戦いが繰り広げられた。その間に、米軍はフィリピンを奪還する。米側にとってペリリュー島の戦略的意義は失われていた。日本側にしても、すでに日本兵の大半が死傷し、戦車や戦闘機は壊滅し、巻き返しは不可能な状態だった。この時点で、日本兵に投降が許されれば、助かった命もあったはずだ。

 それなのに、戦闘がやむことはなかった。米軍による殺りくは続き、日本兵は投降も玉砕も許されず、最後まで抵抗を余儀なくされた。両軍の兵士は何のために、最後まで闘ったのだろう。そこでの死は、何の意味があったのだろうか。