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三池純正「歴史はこんなに面白い!」

“美少年好き”な戦国武将たち 上杉謙信、武田信玄、織田信長らも、“男好き”だった?

文=三池純正/歴史研究家、作家
“美少年好き”な戦国武将たち 上杉謙信、武田信玄、織田信長らも、“男好き”だった?の画像1上杉謙信像(「Wikipedia」より/M-sho-gun)

 上杉謙信には子がなかった。

 考えてみれば生涯、側室はもちろん正室ももたなかった謙信である。血を分けた子などいるわけがない。通説によれば、謙信は潔癖なまでに女性を近づけなかったとされているが、その理由は今もって定かではない。そのため、中には「謙信自身が女であったために女性を近づけなかった」という極端な説まであるくらいである。

 また、軍神毘沙門天に憧れ、それを自らの旗印にまで掲げた謙信は神に不犯を誓い、それを生涯守り通したのだともいわれている。そのことから人は謙信を「不犯の名将」とも呼ぶ。

 だが、謙信が女性を近づけなかったのは、果たしてそんな神聖な理由だったのであろうか。

美少年たちと朝まで宴会

 永禄2(1559)年、謙信は時の将軍、足利義輝の求めに応じて2度目の上洛を行ったが、そこでは相伴衆(そうばんしゅう)に取り立てられ、義輝から裏書御免、塗輿(ぬりこし)御免の御内書と関東管領就任、そして信濃の諸将への指揮権を事実上認められる御内書を得ている。

 謙信はこのとき武田信玄と信越国境線・川中島での戦いを強いられており、これらの御内書は信玄にとって大きな脅威となることは確実であった。その意味で、謙信はこの上洛で信玄を圧倒する政治的手段を得たといえる。

 この上洛のとき、謙信は関白・近衛前嗣(このえさきつぐ)らと将軍・義輝邸に招かれたり、義輝と謙信が近衛邸を訪れたりしてよく酒を飲んでいたようである。謙信30歳、義輝と前嗣は20代半ば、共に恐れを知らない血気盛んな若者であった。そんなことから、3人はすっかり意気投合したのであろう。

 だが、この酒の席には、なぜかいつも美しい若衆がたくさん集められていた。前嗣は「きやもしなる若衆数多あつめ候て、大酒まてにて度々夜をあかし」と記しているところから、この若衆をたくさん侍らせて明け方まで大酒を飲む宴会が、たびたび行われていたことがわかる。謙信は都で何度も美少年たちをたくさんそばに侍らせ、朝までドンチャン騒ぎをやっていたというのである。

有能な武将としての素質も見抜いていた

 さらに前嗣は、「謙信が若衆を大変好んでいることは聞き及んでいる」と述べている。そんなことから前嗣は、以前から謙信の若衆好みを知っていたのであろう。

 この上洛で謙信の武将としての器量を見込んだ前嗣は、この後、周囲の反対を押し切って謙信と共に関東に下向することになる。そんな前嗣にとって、このとき謙信の歓心を買うためにも、都中から美しい若衆を選りすぐって謙信のそばに侍らせ機嫌をとることは大事であったのだろう。

 また、謙信はこの上洛で、近江・守山(現在の滋賀県守山市)の土豪河田氏の子であった岩鶴丸を見初め、越後に連れ帰り、側近として仕えさせてもいる。岩鶴丸は『上杉家御年譜』に「容貌佳麗にして」とあるように、当時10代の美しい少年であった。

 この岩鶴丸は後に河田長親と名乗り、生涯謙信の寵臣として仕え、上杉軍の関東侵攻の指揮官を務めたり将軍や他の大名への交渉を担当したりするが、やがて越中侵攻の指揮官となり、上杉家の越中における一大拠点魚津城の城主を務めることになる。

 このことからも、謙信は岩鶴丸に「容貌佳麗」だけではなく、有能な武将としての素質をも見抜いていたことは疑いない。

 ただ、ここに一つ素朴な疑問が残る。

 それは、謙信がなぜ寵臣長親を長くそばに置かずに、遠い越中の最前線の城に送り込んだのか、という点である。越中は晩年の謙信にとって最重要の領国であり、そこは滅多な人物に任せられないとの謙信の判断があったことは事実であろう。

 戦国時代というのは、後の江戸時代のような強い主従関係などはなく、そこでは裏切り、叛逆は常のことであった。だからこそ、謙信は最も信頼する長親を越中に送り込んだのである。

 つまり、長親と謙信との間には「絶対に裏切ることのない関係ができていた」からであり、それは謙信と長親が男色関係にあったからだとされている(『定本上杉謙信』より)。事実、謙信はこの河田長親を大変かわいがったようであり、長親が戦功をあげたときなど叔父の河田重親にわざわざそれを知らせたりしているほどである。長親の活躍に目を細める謙信の顔が浮かぶようである。

当時の流行でもあった男色

 また、この河田長親と同じ近江出身の鯵坂(あじさか)長実、吉江資堅も謙信の側近を務めているが、これも長親同様に謙信の好みであった可能性が高い。

 これらの事実を重ねてみると、謙信は女性よりもむしろ美しい若衆を好んでいだのではないかということがおぼろげながら見えてくる。そして、それが結果的に女犯というどこか宗教的な潔癖さをもった謙信のイメージにつながっていったのではなかろうか。

 ただ、ここで弁護しておくが、男色は何も謙信に限ったことではなく、信長の森蘭丸、武田信玄の高坂弾正など著名な例もあるように、当時としては特異なことではない。

 事実、応永27(1420)年に来日した朝鮮使節の記録に「日本の将軍は少年を好み、選んで宮中に入れている。そこには、仕えている女性も多いが、特に少年を好んで愛している。国中の武士たちもこれをならって、皆、将軍のように少年を好んでいる」(『老松堂日本行録』)とあり、それが室町時代の一つの武士の流行になっていたことも否めない事実であろう。

 こうしてみると、謙信は当時としては、異常でも何でもない、ただ、女性より男性、特に少年が好きな武将であったということであろう。
(文=三池純正/歴史研究家、作家)

三池純正

三池純正

1951年福岡県生まれ。歴史研究家・作家。歴史の現場を精力的に踏査し、現場からの視点で歴史を見直す作業を続けている

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