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三池純正「歴史はこんなに面白い!」

徳川家康、豊臣家による暗殺計画が存在した?

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徳川家康像(「Wikipedia」より/M-sho-gun)
 静岡県静岡市にある駿府城は、徳川家康が将軍職を嫡子の徳川秀忠に譲り、大御所として晩年を過ごした城である。家康は、天正18(1590)年に豊臣秀吉の命で関東に移るまで、約8年間、駿府を居城として三河、駿河、遠江などの東海道諸国を領していた。

 小田原の北条氏を滅ぼした秀吉は、家康を温暖で陸海交通の要衝である東海道から、北条氏のいなくなった関東に移した。そこには、「100年にわたり北条氏が統治していた関東を治められる武将は、家康しかいない」という秀吉の判断もあっただろう。

 しかし、家康にしてみれば関東は未知の領国であり、統治に失敗すれば、秀吉からどんな仕打ちを受けるかわからない。そんな中、家康は何ひとつ不平を言わず、黙々と領国経営に当たって力を蓄えた。

 秀吉の逝去後、関ヶ原の戦いに勝利して将軍に就任した家康は、たった2年で将軍職を秀忠に譲ると、関東から再び駿府に移り、そこを根拠地として秀忠を補佐する大御所政治を始めた。

 この時、家康はかつての駿府城を大改築した。

幻の巨大天守閣構想


 修築工事は、慶長12(1607)年に開始され、半年後には天守の土台である天守台が完成している。驚くのは、その天守台の大きさだ。

 天守台は南北55メートル×東西48メートルという日本城郭史上最大の大きさを誇っていた。

 これは、どのくらいの大きさなのだろうか。当時、存在していた豊臣家の居城である大坂城(「大坂<おおざか>」、現在は「大阪」)の天守台は、25メートル×23メートルの規模であった。駿府城の底面積はその4倍以上であり、同様に名古屋城や江戸城と比較しても2倍はあった。

 当然、家康はその天守台の上に日本最大の天守閣を築くつもりだった。巨大天守閣の大きさをもって、徳川家の絶大な力を天下に、そして何より大阪の豊臣家に見せつけようとしたのである。

 仮に実現していれば、計算上では、1階部分が南北55メートル、東西48メートルの規模を持つ7層9階の超巨大天守閣が建つことになる。

 しかし、実際に完成した天守閣は、最下層が25メートル×21メートルという、当初の想定よりかなり小ぶりなものになってしまった。これでは天守台に大きな隙間ができてしまうため、四隅に二重櫓を建て、それを多聞櫓で結び、天守台の中心部に天守を建てるかたちになったと推測されている。

 なぜ、そういった状況になってしまったのだろうか。はじめから、小ぶりな天守閣を築くのであれば、天守台もそれに見合った大きさにすればよかったはずである。