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丸茂潤吉「歴史的人物の恥ずかしい過去、知られざる過去」

茶道の異端児、秀吉の素顔 冗談連発の愉快な茶会、ド派手な衣装や高価な茶器で客を幻惑

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豊臣秀吉像(「Wikipedia」より/Tabularius)
 豊臣秀吉は、よく男同士で一杯の茶を回し飲みさせていた。

 茶の湯が戦国武将の間で政治利用されるようになったのは、織田信長の頃だ。京都に足を運んだ信長は「御茶湯御政道」という政策を始め、自分が認めた家臣のみに茶の湯を許可した。これにより、茶の湯は武家の儀礼として認知されていくことになる。

 秀吉も、信長から茶の湯を許された1人だった。茶室は、血生ぐさい戦場を離れた精神修練の場として使われるほか、密談の場でもあった。そこでは、武器の売買から謀略の密議まで行われていたという。

 秀吉の茶には、スキャンダラスな話題も多い。1日で突如中断された北野大茶会、茶の湯のカリスマ・千利休が制作に関わったとされる黄金の茶室、秀吉が切腹を命じたといわれる利休の死の理由……。

 今回は、秀吉の茶の湯の現場を追うことで、天下人のリアルな人柄に迫ってみたい。

「入れや!」「飲めや!」「よく見せろや!」


 信長が始めた茶の湯の政治利用を、秀吉はさらに推し進めた。秀吉の時代には、茶の湯の政治利用はピークを迎えていたのだ。

 そんな秀吉の茶会の様子は、博多の豪商であり茶人の神屋宗湛が『宗湛日記』の中に記している。

 宗湛は秀吉から厚遇された人物で、博多の復興や朝鮮出兵にも関わった。秀吉の晩年には側近として活躍しており、『宗湛日記』からにじみ出る秀吉の姿は、実に面白い。

 1587(天正15)年6月19日、博多で行われた茶会でのこと。宗湛が茶席に近づくと、秀吉は声高に「入れや」と障子を開け放ち、宗湛を招き入れたという。

 茶道史研究家の矢部良明氏は、「亭主がこんな呼び声を発することは、普通の茶会ではあり得ない」と指摘する。ほかにも、秀吉は「よく見せろや」などの発言を残している。

 さらに同年、大坂城における大茶の湯の席では、宗湛は秀吉から「客が多いから、ちょっと一杯を3人で飲めや」と言い渡される。これは、何もケチっているわけではない。吸い茶と呼ばれる回し飲みの方法で、秀吉の時代から生まれた茶の作法である。一つの理想を複数人で共有するという意味が込められており、参加者の意識を高める儀式として機能していた。

客が喧嘩して名物茶器を破損


 しかし、吸い茶が普及する前は、客もその意味が理解できず、戸惑うことがあったという。その極めつけが、奈良興福寺の塔頭多聞院の僧侶だった英俊が『多聞院日記』に書き残した、以下の出来事である。