NEW
武田鏡村「本当はそうだったのか 歴史の真実」

謎だらけの「本能寺の変」 「信長を殺さなければ日本は崩壊する」光秀謀反の真の動機

【この記事のキーワード】

, ,

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

本能寺焼討之図(「Wikipedia」より/ブレイズマン)
 天正10(1582)年6月2日の早暁、京都・本能寺で織田信長は49歳の生涯を終えた。信長を襲ったのは、家臣の明智光秀である。いわゆる「本能寺の変」だ。

 これまで、光秀の謀反の動機については、遺恨や怨念があったとする説、陰謀説、恐怖説と、さまざまな理由が挙げられてきた。今回は、それらを一つひとつ検証することで、光秀の真の動機に迫っていきたい。

遺恨・怨念説


(1)丹波八上城事件

 光秀は、八上城の波多野秀治を4年かけて攻めたが、城がなかなか落ちないため、生母(叔母とも養母ともいわれる)を人質に差し出し、秀治と波多野秀尚の兄弟に「降伏すれば、命と領土を保証する」と約束した。

 波多野兄弟は投降して安土に送られたが、信長は光秀の説得も聞かずに彼らを殺してしまう。約束の反故に怒った秀治の家臣は、人質となっていた光秀の母を殺害する。このため、光秀は世間から「母親殺し」の汚名を着せられ、心中深く信長を恨んだ。

(2)斎藤利三事件

 稲葉一鉄の家臣だった斎藤利三を、光秀が召し抱えた。一鉄がそれについて信長に訴えると、信長は光秀に「利三を一鉄に返せ」と命じた。しかし、光秀が命令に従わなかったため、信長は怒りのあまり光秀を手討ちにしようとした。光秀には、その時の恨みがあった。

(3)恵林寺焼亡事件

 武田氏滅亡の直後、武田氏に味方した快川紹喜(かいせんしょうき)のいる恵林寺を焼き払え、と信長が命じた。光秀はその暴挙をいさめ、信長の逆鱗に触れた。また、諏訪の法華寺で光秀が「武田を滅ぼせたのも、われらが努力の甲斐」と言ったところ、信長は「お前が何をしたというのか。わが子、信忠の多大な武功だ」と、光秀を殴りつけた。その恨みが爆発した。

(4)長宗我部の攻略事件

 光秀は四国の長宗我部元親との和平・連携を命じられていたが、信長は後に長宗我部氏を敵視し、光秀の立場がなくなった。

(5)徳川家康饗応事件

 武田氏を滅亡させた後、光秀は徳川家康と穴山信君を安土城で接待する饗応役を務めたが、用意した魚が腐っていたため、腹を立てた信長に饗応役を解任される。そして、すぐに中国出陣を命じられたため、深い恨みを持った。

 上記はいずれも、本能寺の変の後に推測された光秀の謀反の動機である。信長の凶暴な性格と、光秀の陰湿な性格から、こうした遺恨・怨念説が生まれたのかもしれないが、いずれも決定打とはいえない。