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江川紹子の「事件ウオッチ」第46回

【両陛下の慰霊訪問】で直視すべき、フィリピンの許しと日本の道義的責任

文=江川紹子/ジャーナリスト

 それでも、起訴された151人の約半数にあたる79人が死刑の判決を受けた(一方、13人に無罪が言い渡されている)。同国での峻厳な処罰感情が伺える。

 同国の法律で、死刑は大統領の確認を経なければ執行できない。ロハスの後任となったキリノ大統領の承認で、17人が処刑された。だが、執行はそれ以上行われなかった。BC級戦犯の裁判は7カ国で行われ、984人に死刑が言い渡され、920人が実際に執行されていた。執行率は9割を超す。国民の強い反日感情を考えると、フィリピン政府は死刑執行にはかなり抑制的だったといえる。

「許し難きを許した」キリノ大統領

 日本で助命運動が起こり、キリノ大統領には嘆願書も届いた。だが、家族があれほど無残に殺害されたキリノ大統領である。日本人戦犯に対しては、許しがたい思いを抱いていただろう。それでもキリノ大統領は、その後、身柄拘束中の105人について、2度とフィリピンに戻ってこないことを条件に、有期・終身刑囚は釈放、死刑囚は無期囚に減刑のうえ日本での服役を認める恩赦を行った。

 その理由を、キリノ大統領は声明の中でこう語っている。

「私は、自分の子孫や国民に、我々の友となり、我が国に長く恩恵をもたらすであろう日本人に対し、憎悪の念を残さないために、この措置を講じたのである。結局のところ、日本とフィリピンは隣国となる運命なのだ。私は、キリスト教国の長として、自らこのような決断をなしえたことを幸せに思う」

 憎しみの連鎖を自分が断ち切り、次の世代にもたらさないという決意であった。その背景には、キリスト教の「許し」の教えもあった。

 キリノ大統領は、さらに退任間際の1953年12月、日本で服役中だった元死刑囚を釈放する特赦を行った。冷戦が進む中、国の将来を見据えた政治家としての判断であっただろう。それでも、依然として国内の日本への反感が強い中、自身が妻子を日本軍に殺された彼だからこそなしえた、まさに「許し難きを許す」決断だった。

 日本は、これに最大限の感謝をしつつ、戦犯とされた同胞の帰国や赦免を喜んだ。時の吉田茂首相は、キリノ大統領宛に次のような謝電を送った。

「閣下の崇高なキリスト教精神に基づく措置について、日本の全国民は永遠に記憶に留めることでありましょう」

 しかし、今の日本国民のどれほどが、この史実を「記憶に留め」ているだろうか。「永遠」どころか、この恩赦の措置から60余年で「記憶」はかなり風化したと言わざるをえない。

 それは、戦争を知らない世代に史実が伝えられていないからだ。中学や高校の歴史の教科書を見ても、フィリピンで日本軍が行った行為やマニラでの戦いについて具体的に書かれておらず、ましてやキリノ大統領による「許し」についての記述は皆無だ。

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


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