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宮台真司の『カルテル・ランド』評:社会がダメなのはデフォルトとして、どう生きるかを主題化

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【リアルサウンドより】

■<可能性の説話論>から<不可能性の説話論>へ

 前編をおさらいすると、紀元前5世紀に2つの世界観が分岐します。一つは、社会も愛も、本来は完全たり得るのに、何らかの悪や不条理の所為で不可能化してきた。もう一つは、社会も愛も、本来は不可能なのに、何かか目眩ましになって、社会や愛が可能だと勘違いされてきた。

 前者は<可能性の説話>。後者は<不可能性の説話>。グローバル化による中間層分解が帰結する先進国内の不全感と、蓄積されつつ隠蔽されてきた政治的怨念のグローバル化に伴う顕在化(テロ!)を背景に、冷戦体制終焉後は<不可能性の説話>が浮上しつつある事実を、話しました。

 前編での予告通り今月は、社会に関する<不可能性>の宣べ伝えとして森達也監督『FAKE』とマシュー・ハイネマン監督『カルテル・ランド』を取り上げ、愛に関する<不可能性>の宣べ伝えとしてギャスパー・ノエ監督『LOVE』とアンドリュー・ヘイ監督『さざなみ』を取り上げます。

 『FAKE』は前編で詳しく話したので、次に『カルテル・ランド』(マシュー・ハイネマン監督/5月7日公開)を扱う段取ですね。『FAKE』と同じドキュメンタリー作品で、メキシコ麻薬戦争の最前線に迫った優れた作品です。僕はこれを『FAKE』とコインの表と裏だと感じます。

 両作とも、何か故障があって社会がクソなのではなく、そもそも社会は全て<クソ社会>なのだ、とするモチーフを共有しますが、『FAKE』が<クソ社会>からはじかれた者達を愛でるのに対し、本作は<クソ社会>に良くも悪しくも適応し切れない者達を愛でる対照的な意味論になっています。

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