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任俠団体山口組・織田絆誠代表の生き様を考察…ケンカは超一流、性根は「生粋の極道」

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 極道としてその性根を買い、1000人もの配下を引き連れていた倉本組長が、若き織田代表を倉本組若頭補佐に抜擢したほどである。後の三代目倉本組組長となる河内氏は、その時まだ倉本組内三誠会若頭にすぎなかった。
 

健竜会若頭補佐のポジションを固辞


 たらればを論ずることは詮無い夢想である。だが織田絆誠代表について、あえてドラマを論じるなら、服役中に倉本組の名称が封印されていなければ、今回の任俠団体山口組の設立、いやそれ以前の六代目山口組の分裂もまた違ったものになっていたのではないだろうかというストーリーが思い浮かんでならない。
 
 織田代表が服役中の98年。倉本組長が他界し、六代目体制が発足されるまでの約7年間、倉本組の名称は一旦封印されることとなる。倉本組の正当な後継者が決まらぬまま、その系統は貴広会と倉心会に分かれ受け継がれるのだが、その動向に注目が集まっていた織田代表はどちらにも所属しない道を選んだ。そして、出所後に倉本組の重鎮といわれた人物が織田代表にこう話したのではないかと、ある在阪のフロント(企業舎弟)が当時を振り返る。
 
「その親分は織田さんに対して、『倉本組という土俵では狭い。“山健にあらずんば山口組にあらず”と言われた山健組に行ったらどうか』と織田さんに勧められたと聞きました。その親分自体が井上の親分と親交があり、それで当時、健竜会(山健組二次団体)の会長だった井上親分に引き合わせたのではないでしょうか」
 
 くしくも井上組長と織田代表は同時期に徳島刑務所に収監されていた間柄。それがやがて縁となる。フロントが続ける。
 
「織田さんは、健竜会の若頭補佐という高いポジションで迎えられるはずだったと聞いてます。だけど、織田さんからそれを辞退し、『末席から自分で上っていきます』と話したというのです。後はご承知の通りでしょう」
 
 健竜会とは、五代目山口組・渡辺芳則組長が発足させた組織で、二代目会長には、隆盛を極めた三代目山健組組長・桑田兼吉(五代目山口組若頭補佐)が就いた組織だ。言うなれば、山口組における王道中の王道。金看板である。そこから一気に織田代表は、羽ばたき始めることになる。
 
 健竜会では、幹部による勉強会が定期的に行われていたのだが、織田代表が講師役を務めた会は今でも語り草になっていると、ある関係者は話す。
 
「なんせ人気があった。法の知識はもちろんのこと、戦(いくさ)のやり方など、あの人に『ケンカのことなら自分に言ってこい』と言われたら、一緒になってどこにだって立ち向かっていけると思わせる力があった」
 
 また別の関係者は、織田代表を評して、“五代目山口組渡辺組長の親衛隊”といわれた、五代目山口組臥龍会・金澤膺一初代会長や、五代目山口組若頭補佐だった中野会中野太郎会長の再来、と言うほどであった。
 
 両親分は五代目渡辺組長の懐刀と呼ばれた人物であるのだが、織田代表も実際に井上親分の懐刀になっていく。しかし当時の四代目健竜会には、実力者で、のちに五代目健竜会会長となる中田広志氏という生え抜きの人物が存在していた。いつの世も社会の表裏を問わず、天は両雄を並び立たせようとはしないのであった。
 

偽装離脱はあり得ない

 六代目山口組分裂数カ月前。両雄がついに手を結び、山健組強化に動き始めたという話が、業界内を駆け巡った。両雄とは、当時共に山健組若頭代行だった織田絆誠代表と五代目健竜会・中田会長のことである。特に織田代表が力を注ぎ込んだのが長野県での勢力確保で、織田代表の懐刀を派遣するなどして山健組強化に努めたのであった。そして、一昨年8月27日、空前絶後の六代目山口組分裂が起こり、すぐさま長野が台風の目として銃声が上がったのだ。
 
「戦(いくさ)上手」
 
 織田代表を評して、誰もが口にする言葉である。分裂直後に起こった長野での山健組有力団体(神戸山口組)と弘道会有力団体(六代目山口組)との衝突。織田代表は、それを予測していたかのように長野を強化していた。そして、自身の懐刀である山健組有力組織に先手を突かせたのだ。結果、弘道会幹部でもある六代目山口組三次団体のトップが消息を絶ち、それ以外にもさまざまな衝突が繰り返されたが、これで神戸山口組は完全に勢いに乗った。

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