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日本、南北分裂の危機…幻に終わった米軍との本土決戦と1億総特攻作戦

文=井戸恵午/ライター
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日本、南北分裂の危機…幻に終わった米軍との本土決戦と1億総特攻作戦の画像11945年4月12日、知覧陸軍飛行場より出撃する陸軍特別攻撃隊第20振武隊の一式戦闘機「隼」と、それを見送る知覧町立高等女学校「なでしこ隊」の女学生たち(「Wikipedia」より/Cave cattum)

 1945年6月。

 沖縄防衛の任に当たっていた第32軍司令官・牛島満中将と同参謀長の長勇中将が、摩文仁の軍司令部で自決した。これにより、沖縄における組織的戦闘は終了した。これに先立つ3月には硫黄島を失い、4月には戦艦「大和」が坊ノ岬沖に沈んでいる。

 緒戦の劣勢から立ち直った米軍は着々とその戦力を整え、日本本土への包囲環を着実に狭めていった。特に、サイパン失陥後はB29爆撃機による戦略爆撃が頻繁に行われ、日本本土の主要都市をはじめ、地方都市に至るまでがその標的となり、灰燼に帰していった。

 この状況下において、中立的な第3国を仲介しての和平工作も行われたが、いずれも奏功しなかった。近衛文麿を特使としてソビエト連邦に派遣し、直接交渉によってソ連による和平斡旋を引き出そうと計画されたが、もとより成功の可能性が皆無な計画であった。降伏以外に戦争を終わらせる手段は、もはやなかった。しかし、それは到底容認しがたいものであった。

「敵軍は関東平野に上陸する公算が大」

 結果、大日本帝国は「1億総特攻」の名の下、本土決戦へと突き進んでいく。

 サイパン、グアム、マリアナ、フィリピン、ニューギニアなど、南方に進出している陸軍兵力の多くが玉砕、あるいは戦闘能力を喪失していた。外地に展開している部隊のうち、この時点でまだ有力な戦力を整えていたといえるのは「支那派遣軍」であったが、中国奥地より飛来する米軍爆撃機による攻撃と、八路軍(中国共産党軍)の執拗なゲリラ戦により身動きができず、大陸における戦線の縮小さえままならなかった。

 また、部隊を本土に大挙して呼び戻す船すら乏しく、その部隊を本土決戦に転用することはきわめて困難といえた。

 太平洋に散らばる第一線部隊と内地に残っている部隊をあわせると、日本は約400万の兵力を有していたが、内地にいる部隊はそのうち約11%で45万ほど。機動部隊の援護の下、圧倒的な火力で上陸作戦を仕掛けてくるであろう米軍に対処するには不十分であった。日本の長大な海岸線を守りきるには、これでも数が少なすぎる。

 また、南北に長い列島においては戦闘部隊が簡単に分断されかねない。さらに、この頃は日本本土においてすら国内の輸送路が麻痺状態に陥ることもしばしばであり、艦載機の銃撃やロケット弾攻撃で列車が襲われる事態が相次いでいた。

 そこで、日本軍は3回にわたる国内での大動員、通称「根こそぎ動員」を行って、150万、40個師団以上の戦力を捻出しようとするが、それでも数が足りない。45年6月には「義勇兵役法」を制定し、男子は15~60歳、女子は17~40歳までを後方要員として動員できるようにするなど、法整備を余儀なくされた。

 45年3月に組織された「国民義勇隊」は、有事の場合に一線部隊の弾薬輸送などの職務を行い、さらに、そのなかから「国民義勇戦闘隊」を組織して、一部が兵とともに直接戦線に加わる予定であった。

 しかし、無理矢理動員した正規兵ですら武器が足りない状況であったため、義勇戦闘隊員の武器は持参が基本とされた。そのため、猟銃はもとより火縄銃、日本刀、なかにはナタや鎌なども「ないよりはまし」と持参してきた者さえいたぐらいだ。

 なんとか数をあわせた陸軍は、敵軍上陸の地点を想定し、「第一波は九州の南部、第二波は直接関東平野に上陸する公算大」との結論を導き出した。時期は、雪解けを待って46年春、早ければ45年秋。

九十九里浜に米軍上陸を想定、殲滅計画の実態

 この読みは、米軍の予定とほぼ一致していた。また、敵軍がどこに上がってきてもいいように日本本土を6つに分け、それぞれの場所での戦闘計画を定めた。すべてを決する「決」号作戦である。

 基本的な構想は、沿岸地帯に張り付けた二線級の「沿岸配備師団」が敵の攻撃に耐えている間、戦車を中心とした「機動打撃師団」がその上陸地点に殺到して米軍を撃滅するというものである。

 関東の主な上陸地点は、その広さから九十九里浜と予測され、沿岸配備師団が足止めをしている最中に千葉県北部、あるいは埼玉県東部に展開した戦車部隊が一気に突っ込み、敵の上陸軍を破砕、それに呼応した海軍の残存艦艇(この頃はすでに油がなく、出撃できたとしても人間魚雷や小型の呂号潜水艦、ベニヤ張りの自爆ボート「震洋」など)と特攻機のすべてが米軍艦隊に向けて突撃、撃滅するつもりであった。

 ここで特筆すべきは、一度の攻撃ですべてを決することに主眼が置かれていることである。硫黄島や沖縄では、まったく補給がないなか数カ月にわたって自軍の数倍の兵と戦い続けた日本であったが、なぜ持久戦法を捨てて一昔前の水際防御戦を採用するに至ったのか。

 その理由は、兵の質の低下と米軍の圧倒的な火力である。持久戦法を行うには、「いかに一人ひとりが死なずに、敵を多く殺すか」というのが命題となる。どのように爆風から身を守り、どのようにすれば音を立てずに敵の背後に回り込めるか。そうした戦場で生き残る術を知っている熟練兵は、みな外地で動けなくなっているか、すでに帰らぬ人となっていた。

 また、反撃しようにも米軍の圧倒的な火力が立ちはだかる。太平洋に展開している空母部隊は10隻以上、そこにドイツとの戦いを終わらせたイギリス軍機動部隊も加わり、比較にならないほど強大になっていた。

 さらに、機動打撃師団が敵の空襲をかいくぐって決戦場に到着できるかどうかの問題もある。もはや日本に制空権はなく、そのなかでの進撃は格好の餌食になってしまう危険性をはらんでいた。

 なお、この決号作戦には重要な国の動きが計算に入っていない。ソ連の動向である。ドイツ降伏前のヤルタ会談でソ連の対日参戦はほぼ確定していたが、日本はそれを知るよしもなく、前述のように敗戦の直前まで「ソ連を仲介役にアメリカと講和交渉できないものか」と動いていた。

 関東で米軍と決戦状態にあるなか、ソ連が大挙して北海道あるいは新潟に上陸した場合、いったいどのように戦うつもりだったのだろうか。広島への原子爆弾投下とソ連の対日参戦、それに次ぐ長崎への原爆投下で、日本はようやく戦争終結の意思を固めた。

 もし、本土決戦が現実のものになっていたら、日本がかつてのドイツやベトナム、そして今の朝鮮半島のように「分断国家」に名を連ねていたのかもしれない。
(文=井戸恵午/ライター)

井戸恵午/ライター

井戸恵午/ライター

フリーのライター。主にWEBメディアで執筆中。

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