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「実現不可能だった」地下鉄・銀座線の誕生の秘密…知られざる90年の歴史

文=山田稔/ジャーナリスト
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「実現不可能だった」地下鉄・銀座線の誕生の秘密…知られざる90年の歴史の画像2早川徳次の胸像(地下鉄博物館)

 そんな早川に転機が訪れる。妻の叔父から同郷の実業家で後に“鉄道王”と呼ばれることになる東武鉄道社長の根津嘉一郎(初代)を紹介された。早川の才覚に着目した根津は1911年以降、経営状況が芳しくなかった佐野鉄道(同・東武佐野線)、高野登山鉄道(同・南海電気鉄道高野線)の再建を立て続けに依頼。早川は両線とも、わずかな期間で立て直しに成功した。

ロンドン視察後、有力実業家の支援を得て地下鉄建設に邁進

 鉄道事業の再建に力を振るった早川に大きなチャンスが訪れた。1914年の国際事情視察でロンドンを訪問した。鉄道と港湾調査が目的だったが、早川はロンドンの地下鉄の発達ぶりや定員を座席数プラス4としたグラスゴーの地下鉄のゆとりのあるシステムに衝撃を受け、東京にも地下鉄建設が不可欠との思いを抱いた。当時の東京の市民の主な足は路面電車だったが、慢性的な混雑と渋滞に悩まされていた。

 帰国後、早川は鉄道省などに地下鉄の建設を働きかけたが、東京の軟弱地盤などを理由に相手にされなかった。自ら地質・湧出量調査や交通量調査などを実施して、東京軽便地下鉄道を設立、1919年に地下鉄免許を取得した。資金調達のため投資家や金融機関と粘り強く交渉を重ねた。

 早川の理解者、支援者には後藤新平、大隈重信、渋沢栄一、根津嘉一郎、石橋湛山といった錚々たる人物が名を連ねている。

 1920年、東京地下鉄道を設立し、早川は常務取締役に就任。1925年9月、いよいよ浅草-上野間の地下鉄工事が始まり、1927年12月30日に悲願の開業に漕ぎつけた。早川46歳の時である。

 車両は全鋼・難燃化車両を採用し、打子式ATC(自動列車停止装置)を導入するなど安全面に気を配った。同時に地下鉄出入り口にビルを建て、ビル内や駅構内に店舗を配置したり、デパートへ直接出入りできるようにした。定期券利用の通勤客向けの夕刊受け取りサービスなど営業面でも最先端の手法を駆使した。阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)を率いる小林一三の手法を参考にしたといわれている。

 開業当初は1両編成で運行していたが、早川は将来の輸送量増加を見越し、駅のホームを6両編成に対応できるようにした。こうしたところに早川の先見性を感じる。

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