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東芝を潰した男・西田厚聰氏が逝去…中途採用から最高権力者へ、豪腕経営者の功罪

文=編集部
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東芝を潰した男・西田厚聰氏が逝去…中途採用から最高権力者へ、豪腕経営者の功罪の画像1故・西田厚聰氏(左)と佐々木則夫氏(写真:AFP/アフロ)

 東芝の社長・会長を務めた西田厚聰氏が12月8日午後11時53分、急性心筋梗塞のため東京都内の病院で死去した。73歳だった。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は長男・啓氏。

 西田氏は異色な経歴の持ち主だ。1943年12月29日、三重県に生まれた。「一番でなければ気が済まない」性格で、猛勉強して東京大学や京都大学などのトップ校を目指したが失敗。浪人して早稲田大学第一政治経済学部に入学。卒業後、東京大学大学院法学政治学研究科修士課程に進んだ。大学院では丸山真男や福田歓一に師事しながら、西洋政治思想史を研究した。

 政治史の研究で来日したイラン出身の女性を見初めて学生結婚し、イランに渡った。学問の世界から足を洗ったことについて、多弁な西田氏は口を閉ざしている。周囲は、「東大の卒業生でないため東大教授になれないことがわかったからだろう」と見ている。

 イランでは、東京芝浦電気(現東芝)と現地法人の合弁会社に就職した。そこで才能を見込まれ1975年5月、東芝に入社した。時に31歳。青年期を過ぎての中途採用組だ。ここから社長にまで昇り詰めたのだから超異端児である。

 東芝に入った西田氏は、欧米の販売会社を13年間渡り歩いた。二番になるのが大嫌いなため、パソコン事業を興し、世界初のノートパソコン「ダイナブック」を欧米で売りまくった。米国のノートパソコン市場で一時、シェアトップになったこともある。

“お公家集団”と揶揄された東芝では、西田氏のアクと押しの強さは際立った。それゆえ逆に重宝され、「パソコンの西田」の異名をとった。その実績が認められ、30歳過ぎの中途採用組にもかかわらず名門・東芝の社長の座を射止めた。

 2005年6月に社長に就任した西田氏のデビューは鮮烈だった。圧巻は06年2月の米原子力プラント大手、ウェスティングハウス・エレクトリック(WH)の買収だ。WHと古くから取引関係がある三菱重工業が大本命といわれていたが、東芝は想定価格をはるかに超える約6600億円の買収価格を提示し、最終コーナーで三菱重工を抜き去った。

 一方で西田氏は、東芝EMIなどグループ企業を売却した。原子力発電所と半導体を経営の2本柱に掲げる「選択と集中」を進めた。半導体は国内首位で世界3位(当時)、原発は世界首位に躍り出た。この時期が西田氏の絶頂期だった。

 2つの事業にはそれぞれ特有のリスクがあることを、この後、思い知らされることになる。半導体は価格と需要の変動が激しい。08年秋のリーマン・ショック後の需要急減で価格が70%も下落。東芝の半導体事業は赤字に転落。09年3月期の連結最終利益で3435億円の巨額赤字に陥った。西田氏は会長に退いたが、辞任会見で「引責辞任」とは口が裂けても言わなかった。

 西田氏の退任を決めたのは、指名委員会の委員長を務めた会長の岡村正氏だった。指名委員会は西田氏の後任社長に佐々木則夫氏を指名した。原子力畑を歩き、原子力発電事業のエキスパートだ。WH買収の立役者でもある。

 東芝は委員会設置会社に移行したことで、指名委員会を牛耳る会長と、経営の執行役の社長という二重権力構造になった。だが、人事権を握ったほうが強い。東芝の人事抗争は、会長の指定席になった指名委員会がキングメーカーになったことに根ざしている。

BusinessJournal編集部

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