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湯之上隆「電機・半導体業界こぼれ話」

なぜ東芝は、利益の9割を稼ぐNANDメモリ開発者を辱めて追放したのか?

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(3)舛岡氏は開発初期の頃に、「NANDがHDDを置き換える!」と将来の夢を語った。東芝の誰もが、「そんなバカなことがあるはずないだろう」と思った。しかし、舛岡氏が貫いた“非常識”が、30年の歳月を経て“常識”になった。リーダーたるものはデッカイ夢を語ることが重要で、その夢を貫き通す覚悟が、事業を成功に導いたと考えられる。

(4)開発初期のチーム10人には“ゆるゆるの天才”のチームリーダー白田理一郎氏、チームの叱られ役で“サンドバッグ”の作井康司氏、元ラガーマンで“影のリーダー”としてチームをまとめた百冨正樹氏など、個性豊かな部下たちがいた。舛岡氏は方針を示し、あとは部下に自由にさせた。彼らが自由に開発できたことにより、わずか3年でNANDの試作に成功し、事業化が実現できたと思われる。

(5)舛岡氏らがNANDを試作し事業化しようとしていた1990年頃は、DRAM全盛の時代で、舛岡氏のチームは「なんでDRAMをやらないんだ」と非難の対象となっていた。このとき、ULSI研究所の武石喜幸所長が防御壁となって舛岡氏のチームを擁護した。武石氏の後ろ盾があったからこそ、NANDは事業化できたといえる。

 以上が、筆者が考えるNANDの発明と事業化成功の5つの要因である。もう一言付け加えると、NANDの発明や事業化は「東芝だったからできた」と考えている。仮に日立に同じメンツが揃っていたとしても、DRAMの主流派に叩き潰されただろう。日立に比べて“自由な技術文化”があった東芝だからできたのだと筆者は思う。

東芝を訴えた舛岡氏

 
 舛岡氏は、擁護者であった武石氏が91年に63歳で急逝された後、93年に「部下もなく予算もつかない技監」に昇進させられ、R&Dができなくなった。その結果、「東芝で僕がやることはなくなった」と言って、1994年に東芝を退職し、東北大学教授に就任する。ちなみに94年とは、まさにNANDの量産が始まった年であった。

 その舛岡氏は2004年3月2日、東芝を相手取って「フラッシュメモリの発明対価として10億円を要求する」裁判を提起する。かつての部下たちは、「舛岡さん、どうしちゃったの?」と首を傾げ、「裁判沙汰はやめてほしかったですね」と疑義を呈する。また舛岡氏の上司だった飯塚氏は、「彼は自己主張が強い。ある意味、オレがオレがというところがある。全部自分がやったという気持ちになっていたんじゃないのか」と批判する。結果的に06年7月27日に、舛岡氏と東芝は和解し、「舛岡氏の東芝在職中の特許約500件の対価として、東芝が舛岡氏に8700万円を支払う」ことで決着する。

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