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三浦展「繁華街の昔を歩く」

誰も知らない新宿・歌舞伎町

文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表
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誰も知らない新宿・歌舞伎町の画像1「新宿スカラ座」(「新宿歴史博物館」より)

歌舞伎町には歌舞伎座ができるはずだった

誰も知らない新宿・歌舞伎町の画像2『台湾人の歌舞伎町』(稲葉佳子・青池憲司著/紀伊國屋書店)

 稲葉佳子・青池憲司著『台湾人の歌舞伎町』(紀伊國屋書店)が面白い! 東京・新宿の歌舞伎町の店舗の経営者やオーナーに中国人、韓国人が多いということは、一般論としては私も知っていたが、同書は実に徹底的にその実態を当事者へのインタビューなどを通じて歴史的に検証している。私が新宿でほぼ唯一入る店、名曲喫茶の「らんぶる」も台湾人がつくった店だとは! 驚きの連続の本なのだ。

 都市の歴史というものは、大きな道路やビルなどによってのみつくられるのではない。一人ひとりの人、一つひとつの小さな店、いや、露店や屋台も含めて小さなもののうごめきがつくりだす、ということを教えてくれる都市研究の名著である。

 歌舞伎町は今では世界に冠たるエロチックタウンであるが、そもそもは、その名の通り歌舞伎座をつくって芸術文化の街をつくるというコンセプトで開発が始まった街だった。角筈1丁目北町(歌舞伎町の旧町名)の町会長だった鈴木喜兵衛と、東京都都市計画課長で、その後日本都市計画学会会長となる石川栄耀(ひであき)が、敗戦後の焼け野原に広場を囲んで劇場、映画館、ダンスホールなどが並ぶ一大アミューズメントセンターをつくろうという計画だったのだ。

 東京都の役人がそんな柔らかい街づくりを構想するとは不思議だと思われる方もいるだろう。だが、石川は昭和初期からすでに「夜の都市計画」の重要性を主張してきた稀有な存在なのである。「夜」は「昼間とても得られぬ親しい人間味のある安静の時だ。トゲトゲしい昼の持つ、一切の仲たがいと競争と、過度の忙しさと、人間紡績機の乾燥さに静かに幕をおろし、本来の人なつこい心に帰る時である」。「人と人との間に失われつつある、愛の回復のために夜の親和計画」を考えよう、と石川は言ったのである。

 しかし歌舞伎町は建築制限、預金封鎖、物資不足などにより、計画どおりには実現されなかった。鈴木は苦肉の策として、1950年に東京産業文化博覧会を開催して、博覧会用につくったパビリオンを映画館に転用、さらに56年にコマ劇場が完成して、なんとか娯楽の街ができていった。

終戦後の闇市時代

 もともと新宿は甲州街道の宿場町だったが、大正、昭和にかけて私鉄が発達すると、ターミナル駅として発展する。銀座、上野、浅草とはひと味違う、陽気で俗っぽくて若々しい街だったという。

 それが戦争で焼け野原となり、駅周辺にテキ屋の親分たちによって闇市(露店街)が形成された。また、親分の一人である安田朝信(とものぶ)は淀橋警察署長に頼まれて駅の西口にも露店街を開いた。なぜ警察が露店街をつくりたいと思ったかというと、放っておくと、中国、韓国人が西口を不法占拠すると考えたからである。

 当時の中国、台湾、韓国人は、戦勝国でもない、敗戦国でもない、という意味での「第三国人」「解放国民」だったのだ。つまり日本人のように戦勝国によって活動が規制されていなかった。だから彼らが日本各地の繁華街で活躍を始めていたのである。

 西口には米軍からの横流れ品、洋酒、缶詰、牛肉、高級服地はもちろん、ガソリン、乗用車、拳銃までが、台湾、中国の華僑を通じて売られていた。儲けた金で、日本人は入れないアメリカ式のキャバレーで遊び、大きなアメ車を買っていた。

 私が愛用するらんぶるも1950年に、西口マーケットで寿司屋をやっていた台湾人の呂芳庭(ろ・ほうてい)がクラシック音楽に詳しく、弟と店を開業したものだという。それに刺激されて台湾人の林金馨(りん・きんせい)がつくったのが、名曲喫茶「でんえん」と「スカラ座」。林は戦後、やはり西口マーケットでせんべい屋を始め、それから毛糸屋を2軒出す。3つの店が軌道に乗ると経営を妻に任せ、歌舞伎町に名曲喫茶を出したのだという。学生時代からクラシックレコードを収集するマニアだった。

誰も知らない新宿・歌舞伎町の画像3喫茶店らんぶる

喫茶店らんぶるのアイスクリームの謎

 こうして本を読み進めていくうちに、歌舞伎町に小島屋ビルというビルがあると知り、私の記憶が呼び覚まされた。私は数年前に、歌舞伎町の東にある西向天神から花道通りを経て、山手線の西側の新宿都税事務所の信号から大久保通りに抜ける道を東中野まで歩き、どうもこの一部は暗渠らしいと悦に入っていた。

 で、その散歩の途中で西新宿7丁目に別の小島屋ビルを発見していたのだ。このビルは、小島屋乳業の本社ビルで、同社はアイスクリームや牛乳やジュースのメーカーらしかった。

 ビルの壁面はスクラッチタイルという、フランク・ロイド・ライトが1923年の帝国ホテルで使った様式が使われているようであり、建物自体は戦後建てたものらしいが、戦前からあるようなクラシックな風格があった。どうしてこんなところにこんなビルがあるのだろうと、私はずっと疑問に思っていたのである。

 そして『台湾人の歌舞伎町』を読むと、小島屋の創始者は、終戦後に新宿西口マーケットでアイスクリームを売っていた日本人だと書かれている。なるほど! マーケットから発祥した会社だったのだ。

 歌舞伎町のほうの小島屋ビルの隣にあった喫茶店は、主人が台湾人で妻が広東系だったと同書は書いているが、その喫茶店に小島屋のアイスクリームや牛乳やジュースが納品されていたとしてもおかしくない。

 そう思いながら私は早速、歌舞伎町のほうの小島屋ビルを見に行った。完全な雑居ビルである。パブと牛丼の松屋とカラオケの店が入っている。これがアイスクリーム会社のビルだと誰も思うまい。

 特に発見もなかったので「らんぶる」へ向かった。店に入ってまずトイレに向かった。トイレの前に冷蔵庫や冷凍庫があり、そこにアイスクリームや牛乳が入っている。そしてその冷蔵庫や冷蔵庫にはたしかに「小島屋乳業」の文字が!

 先ほど書いたように、らんぶるも西口マーケットの台湾人がつくった喫茶店だ。西口マーケットでアイスクリームを売っていた小島屋乳業と古くからの付き合いがあって不思議ではない。もしかすると新宿中のアイスクリームや牛乳が小島屋乳業製なのかしら。

 今度から新宿で飲食店に入ったら、必ずチェックしよう。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)

誰も知らない新宿・歌舞伎町の画像4西新宿7丁目にあった小島屋乳業ビル(三浦が2011年頃撮影。現存せず)

三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

82年 一橋大学社会学部卒業。(株)パルコ入社。マーケティング情報誌『アクロス』編集室勤務。
86年 同誌編集長。
90年 三菱総合研究所入社。
99年 「カルチャースタディーズ研究所」設立。
消費社会、家族、若者、階層、都市などの研究を踏まえ、新しい時代を予測し、社会デザインを提案している。
著書に、80万部のベストセラー『下流社会』のほか、主著として『第四の消費』『家族と幸福の戦後史』『ファスト風土化する日本』がある。
その他、近著として『データでわかる2030年の日本』『日本人はこれから何を買うのか?』『東京は郊外から消えていく!』『富裕層の財布』『日本の地価が3分の1になる!』『東京郊外の生存競争が始まった』『中高年シングルが日本を動かす』など多数。
カルチャースタディーズ研究所

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