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三浦展「繁華街の昔を歩く」

中野ブロードウェイの北側がなかなか面白いぞ…建物から見つかる約50年前の姿

文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

中野ブロードウェイの北側がなかなか面白いぞ…建物から見つかる約50年前の姿の画像2柳通り沿い。旧花街らしい建築だ

 中野区新井はもともと新井村。その後、野方村大字新井となり、1924年に野方町、1932年に中野町と合併して中野区となった。1927年には高田馬場から東村山を結ぶ鉄道の村山線(現在の西武新宿線)が開通し、新井薬師に参拝する人も増え、地価が2倍に上昇したという。

 また、時代はさかのぼるが、1910年には市ヶ谷から監獄が移転してきた。豊多摩刑務所である。刑務所の前には「放免茶屋」と呼ばれる茶屋ができて、出所した人が風呂に入ってから、迎えに来た家族と一杯酒を飲む場所になっていたというから面白い。

見つかった料亭の名残

 三業地ができたのは1925年である。もともと新井薬師近くには「萬屋」「角屋」「山口家」「辰美野」という料亭があったが、その料亭の主人たちが三業地指定の請願活動を行った。萬屋や辰美野は窪寺という一族が経営していたが、その一族に新井町の収入役がいたこともあり、請願が認められ三業地ができたらしい。

 こうして1929年頃には待合の数は23軒、置屋は40軒、料亭は11軒となった。花街周辺には、寿司屋、うなぎ屋、洋食屋、カフェなどが集まり、にぎやかになっていった。また、あいロードの早稲田通りに出る手前には「昭和亭」という、1階は商店で、2階が大衆演劇の寄席になっている施設もできたという。

 昭和40年代の地図を片手に現地に行ってみる。地図だとまだかなり料亭が残っており「つたや」などの店名が見られる。その料亭のある場所に行ってみると、料亭はもうなく、料亭の周りにあったらしい小料理屋も廃屋になっている。

 ただし元料亭らしい木造の建物は少しだけ残っており、色気のある雰囲気を漂わせている。「つたや」があったはずの場所はマンションになっているが、そのマンションの名前が「アイビーマンション」だった! アイビーは英語で「つた」である。

中野ブロードウェイの北側がなかなか面白いぞ…建物から見つかる約50年前の姿の画像3料亭の名残

 街歩きをして、その街の過去を知りたいときは、こういうふうに、マンションやビルの名前を詳しく見ないといけない。よく見れば必ず何かが見つかるのだ。

参考文献
中野区教育委員会『新井・上高田』1999年
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)

三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表

82年 一橋大学社会学部卒業。(株)パルコ入社。マーケティング情報誌『アクロス』編集室勤務。
86年 同誌編集長。
90年 三菱総合研究所入社。
99年 「カルチャースタディーズ研究所」設立。
消費社会、家族、若者、階層、都市などの研究を踏まえ、新しい時代を予測し、社会デザインを提案している。
著書に、80万部のベストセラー『下流社会』のほか、主著として『第四の消費』『家族と幸福の戦後史』『ファスト風土化する日本』がある。
その他、近著として『データでわかる2030年の日本』『日本人はこれから何を買うのか?』『東京は郊外から消えていく!』『富裕層の財布』『日本の地価が3分の1になる!』『東京郊外の生存競争が始まった』『中高年シングルが日本を動かす』など多数。
カルチャースタディーズ研究所

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