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天皇が激怒し討伐を命じた事件

文=井戸恵午/ライター
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天皇が激怒し討伐を命じた事件の画像1反乱軍の栗原安秀陸軍歩兵中尉(中央マント姿)と下士官兵(「Wikipedia」より/Stonewall)

 1936年2月26日。

 国家改造を目的とする陸軍の青年将校らは部下の下士官兵らを率い、時の内閣総理大臣・岡田啓介、侍従長・鈴木貫太郎、内大臣・斎藤実、大蔵大臣・高橋是清、教育総監・渡辺錠太郎、前内大臣・牧野伸顕らを襲撃、警視庁や陸軍省・参謀本部・各新聞社などを占拠した。世に言う「2.26事件」である。

 青年将校らの行動に対し、陸軍首脳は当初「皇軍相討つ」ことを避け、穏便な事態収拾を図るべく彼らに歩み寄りを見せた。なかには「彼らの気持ちは理解できる」と発言する者さえ存在し、その目的である「昭和維新」の大詔渙発、挙国一致内閣である「協力内閣」の誕生による国家改造が成し遂げられるかに見えた。

 しかし、青年将校らのこの行動は昭和天皇を激怒させるものであった。「最も頼みとする重臣らを殺された」として、天皇は彼らを反乱軍とみなし、討伐を命じることとなる。

 事件の第一報を受けた時点から、その方針はぶれることがなく、またこれを受けて陸軍首脳部も討伐の方針へと傾斜、ついに討伐命令が下ると共に彼らは「反乱部隊」として明確に規定された。青年将校らは自決したり逮捕されたりして、事件は終息する。

 この2.26事件については、事件当時から現在に至るまで、さまざまな評価がなされている。また、青年将校らに天皇への愛の感情である「恋闕」、あるいは「憂国の至情」といったものを見いだして同情の念を抱く者も少なくない。

 そのあたりは別として、政変を目的とする軍事行動、つまり「クーデター」のひとつとしては、どのように評価できるものなのだろうか。他国の同様の事態、特に立憲君主制を採る国のそれと比較しながら考えてみたい。

ネパールで起きた「国王によるクーデター」

 1960年12月15日。

 ネパールのマヘンドラ・ビール・ビクラム・シャハ国王は突如、親衛隊に命じて内閣の全メンバーと主たる政党の指導者を逮捕させた。また、憲法を停止し、内閣と議会を解散させた上で国王首班による内閣を組閣した。1962年には新憲法を公布し、「パンチャーヤト制」と呼ばれる独自の間接民主制を構築、自らをその頂点に置くことで事実上の国王親政を行うに至った。

 さらに、マヘンドラ国王は文化大革命期の中国の影響を受けてか、ネパール式の「下放」である「故郷に帰れ」国民運動を展開、都市のインテリ層を地方に移住させて地方開発に当たらせている。この国王によるクーデターによって生まれた体制は、その後30年近く継続することになる。

 もし、2.26事件の際に、これと類することが昭和天皇の手によって行われていたら、青年将校らが狂喜したであろうことは想像に難くない。天皇親政による政治改革、さらには農村復興のための施策が行われることになるからである。しかし、「君臨すれども統治せず」という英国式の立憲君主を志向する昭和天皇からすれば、これは考えすらしなかったことであろう。

スペインでは陸軍首脳周辺が軍事政権を要求

 1981年2月23日。

 スペインで、アントニオ・テヘロ・モリナ中佐率いる武装した兵士200名が下院議会を制圧、首相以下350名の下院議員を人質に取って立てこもり、「テロリストを厳重に取り締まる軍事政権の樹立」を求めた。

 これは、テヘロ中佐の独自行動ではなく、第三軍管区の司令官であるハイメ・ミランス・デル・ボッシュ中将が「非常事態」を宣言し、戦車隊をバレンシア市内に展開するなど、一部将官らも呼応する動きを見せた。また、前参謀次長であるアルフォンソ・アルマダ・コミン中将も関与している。

 2.26事件では尉官である青年将校らが中心となっていたが、それとは異なり、より陸軍首脳に近い人々が引き起こした事件であることがわかる。この事件は、2月23日(23 de febrero)に起きたことから「23-F事件」と呼ばれている。

 事件の背景としては、これに先立つ1975年、スペインの国家元首(総統)であったフランシスコ・フランコの死去に伴う王政復古や立憲君主制下における民主化の影響が大きい。

 また、そのなかで、バスクの分離独立を求める過激派組織「バスク祖国と自由(ETA)」によるテロ行為の多発がある。さらには、当該期のスペインは経済成長率が低迷しており、失業者も150万人を超える状況だった。陸軍右派に分類される人々が、これらの「失政」を国家の危機と認識し、かつてのフランコ時代のような「法と秩序の回復」のための「救国内閣」の樹立を求めたことが事件発生の原因といえる。

 しかし、このクーデターは失敗に終わる。その最も大きな理由が、当時のスペイン国王であるフアン・カルロス1世が協力を拒み、かつ自ら鎮圧するべく動いたからである。

 事件発生の第一報に接するに際し、2.26事件の際の昭和天皇同様、まず軍服に身を包んで反乱軍との交渉と事態の収拾のために動いた。国王は彼らの要求を全面的に拒否し、また間髪を入れずに王命を告げる文書を作成して発布した。

 それは、現行法の枠のなかで憲政の秩序を維持する不退転の決意の表明に始まり、クーデター側を明確に「反乱軍」と規定し即時解散を命じる厳しいものであった。その結果、23-F事件は18時間で鎮定されたのである。

昭和天皇と面会後にクーデター発生…奇妙な一致

 この事件も、2.26事件同様に近代的な「立憲君主」であろうとする君主の強固な否定によって失敗に終わったといえる。立憲君主制下において、またクーデターを実施する主体が右派勢力である場合、君主による容認は不可欠である。2.26事件と23-F事件は共に、この君主のコミットメントが得られなかった点が致命的だったといえるだろう。

 なお余談だが、国王クーデターが発生した1960年の4月にはマヘンドラ国王が、そして23-F事件が発生する前年の1980年にはフアン・カルロス1世が、それぞれ国賓として訪日し昭和天皇と面会している。もちろん、その席上で2.26事件について語られることはなかったであろうが、その後の展開を考えると、小説の伏線のようで味わい深いものがある。
(文=井戸恵午/ライター)

井戸恵午/ライター

井戸恵午/ライター

フリーのライター。主にWEBメディアで執筆中。

Twitter:@idokeigo

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