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織田直幸「テレビメディア、再考。」第5回

金平茂紀と山路徹が語る、なぜテレビのデモ報道は過小報道?

文=織田直幸
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金平茂紀と山路徹が語る、なぜテレビのデモ報道は過小報道?の画像1「報道特集 HP」(TBS)より

【前編はこちら】
『なぜテレビのデモ報道は“過小報道”になってしまうのか?(前編)』 

テレビが持つ意味や価値が大きく変わってきた。大衆への影響力はいまだ強く残るものの、ネット上では、その一面性や権威性、商業性などが批判の的となっている。「メディアの王様」の座が揺らぎつつあるテレビに求められる変革とは何なのか? キーマンたちへの取材を通して考える――。

「テレビメディアのデモ報道をめぐる、現代固有の問題点とは何なのか?」を考えていく手がかりとして、APF通信代表の山路徹さんにお話をお伺いした。

金平茂紀と山路徹が語る、なぜテレビのデモ報道は過小報道?の画像2山路徹氏

 現在は女性誌やラジオ番組などで女性の悩みに答えていくような仕事も多い山路さんだが、今も精力的に被災地などの現場で活動を続けるジャーナリストである。3.15の原発事故直後のタイミングでは、記者たちが誰も入らなかった福島第一原発から30キロ圏内の地域に入り、取材を行った。

「原発事故直後、30キロ圏内屋内退避の指示が出され、あの中にメディアは誰も入らなかったのが現実だった。本来、国に見捨てられたあの地域に飛び込んでこそ報道の仕事。しかし、それはなされなかった。それは(大手)マスコミだけじゃなくてフリー(のジャーナリスト)も同じだった」

 山路さんは原発事故直後に南相馬に入り、VTR取材を行った。しかし、その映像は日本の放送局で放送してもらえなかった。爆発事故直後、30キロ圏内にメディアは入ってはいけないことになっていて、映像は、その“入ってはいけない所”のものだったからだ。

「当時、私のところで撮った映像は、日本のメディアでアウトプットできなかった。それでイギリスのBBC放送やロイター通信、AP通信に出していったんです。BBCは日本のCS放送で見られるから、僕自身も自分の家でそれを見ました。東海村の臨界事故の時もそうだったんですよ。現場に入って取材したら、当時僕らのVTRを放送してくれる場所がやはり国内にはなかったんですね」

原発事故報道やデモ報道を縛る、メディアの“コンプライアンス”

 山路さんは今回のデモ報道をどう見ているのか。

「今回のデモは、これまでデモに参加したこともないような日本人が有事に直面し、危機感を持って足を運んだ。それを30キロ圏内報道と同じようにマスメディアは十分に扱えていない。あのデモをどう扱っていいかわからないと思うんです。マスメディアの発信する情報は、管理情報なんですね。つまり、マスという大きなものを相手に報じるということは、ある種、自主規制的なところがあって、報じた後の影響力に対する責任意識が強いので、なかなかネットメディアのように、取材したことをパッと伝えることができないのも事実です」

 山路さんは、原発事故報道の問題と今回のデモ報道の問題に通底していることがあると指摘する。それは「メディアを縛るコンプライアンス(法令順守)」だという。

「今のテレビって、コンプライアンスにがんじがらめなんですよ。できないことが結構ある。警戒区域内の取材もそう。今だから様子を見ては結構いろいろな人が入っているけど、原発がああなった直後はみんな逃げて入らなかった。

 我々の仕事というのは『入るな』ってところに入り、『聞くな』ってことを聞かなきゃならない。『言うな』ってことを言わなきゃならない仕事なのです。しかし、コンプライアンスという名のもとに、僕らの仕事を縛っていく現実がある。本来メディアはコンプライアンスの対極にいなきゃいけない。常に規制とか力と対峙してなきゃいけない。それなのに、そうしたものに縛られてしまっている。

 竹島に関する報道もそう。みんな記者なら取材に行きたいんですよ。韓国に実効支配されている竹島が、今どんな状況か知らなきゃいけないとは考えている。韓国は定期船を出しているから、日本人でも韓国からなら竹島に行けちゃうんです。ただ、それをやろうものなら、外務省からクレームがくる。相手国の仕切りの中でやるってことは相手国の実効支配をより認めることになる。だから『行かないでくれ』って言われる。日本のメディアはそれを守って行かない。そうすると何が起きるかというと、韓国のテレビ局が撮った映像をこっちがまた出すわけ。そっちのほうがよっぽどおかしい。

 ものを作る上での最低限のコンプライアンスーーそれは、報道被害を生まないためのコンプライアンスだったり、人を傷つけないコンプライアンスだったりは必要だけれど、今のそれは、自分たちの手足を縛るコンプライアンスになっている」

 コンプライアンスは、ここ十年くらいで出てきた、極めて現代的な概念だと思う。山路さんはこのコンプライアンスや自主規制といった、ある種の消極姿勢がデモ報道にも影響を与えているのではないかと分析している。

なぜテレビメディアは、脱原発デモ報道に“失敗”したのか?

 私には今回お会いしてお話をお伺いしたい人がもう一人いた。TBSの報道局長やアメリカ総局長などを務め、『報道特集』キャスターとしても活躍されている金平茂紀さんだ。

 7月18日金曜日、大飯原発再稼動後の首相官邸前デモを、テレビ朝日『報道ステーション』が8分前後で取り上げた。それは、マスメディアが初めて官邸前デモを報じたもので、おそらく原発事故後のデモ報道としては、最も長い時間を割いたものだった。その後、他局も首相官邸前でのデモを取り上げるようになってきていた。

 そんな中での8月11日、『報道特集』で放送された「首相官邸前デモ特集」は優れて今を切り取ることに成功していた特集だったように思った。

 その特集では、毎週首相官邸前に集まるデモを報じつつも、そのデモの横で同じ時間に行われていた神宮前花火大会に来ていた若者にもインタビューをしていた。浴衣を着た、おそらく20代そこそこの若いカップルは「原発? 別に再稼働してもいいっすよ。電気代上がったら困っちゃうし。デモ? ま、別にいいけど迷惑かな? みたいな……」とコメントしていた。

 こうした若者の姿も、あの同じ時間の一つの事実である。盛り上がっていた首相官邸前デモを報じる一方で、こうした若者の姿を報じるバランス感覚みたいなものに、私は共感を覚えた。“こういう事実の切り取り方は冷静だな”と感じたのだ。

 そのVTR放送後、このデモに関する所感を語った金平さんによれば、「私は、このデモをここ8週くらいにわたって取材を続けていますが……」という。

 毎週首相官邸前に通っていた彼は、しかし、『テレビメディアは脱原発デモの報道に失敗した』と考えている。そのことは下記のWEBに掲載されたご自身の論考に詳しいが、彼はなぜそのように考えているのだろうか。

「テレビが今回の脱原発デモ報道に上手くいかなかったのは、コンプライアンスのように外から縛られているということよりも、もっと内発的なものだと私は思います。記者個人の能力が劣化し、ジャーナリズムの基本みたいなところが劣化している。ピンと反応しなくなっている。つまりは、記者個々人の想像力の問題です。その結果、本来は牙を持っていなくちゃいけないマスメディアが、従順な仔羊みたいになっている。政府広報みたいになっている。情報が発表されると、それを右から左に伝えるのが報道だなんて勘違いしてる記者も多いんじゃないかと思います。

 その状況はこの10年で一番酷くなったと思います。JCO事故【注】からの10年ーーこの10年というのは、おそらくメディアの力が死んでいった時代でしょう。僕自身にも責任があるから、よく分かります。この10年でマスメディアはダメになったなぁって」

時代への臨場感を削いだ、メディア人のサラリーマン化

 “視聴者と作り手”という180度異なる立場の私と金平さんの感じていることは、しかしほとんど同じだった。それにしても、どうしてテレビ報道の現場は、デモ報道に関し、積極的になれないのだろうか?

「昨年から続く脱原発デモは、明らかに多くの人が今までと違うレベルの怒り方をしている。そういうことにメディアは気づいてないんです。今の編集長、デスク、キャップなど要するに『これを取材しよう!』という時に束ねていくような人たちの中に、そういう取材をやることへのアレルギーを持ってしまっている人たちがいる。そうすると、そういう報道が出てこなくなる。彼らに『やったほうがいいんじゃない?』って言っても、『いや、いいんですよ、あんなもんは』と言われる。そうしたことは僕も35年取材経験があるから、見えるんですよ。今回、今までとは比べられないほど大変なことが起きたわけです。それに対して素直に怒りを表明するのは当たり前のことなのに、編集長、デスク、キャップたちがそれにアレルギーを持ってしまっているのが、今のマスメディアの不幸だと思いますね」

 また、テレビ報道マンのサラリーマン化が進行していることも深刻な問題だと金平さんは指摘した。これは前回のコラムの中で、元日本テレビ社会部長の河野慎二さんが指摘した、記者の情報ソースの問題ともリンクするものだ。

「僕らメディアの人間は、人が休んでいる時、一番働かなきゃならない。市民運動をやる人は普段働いていて、土日にいろいろな活動をしています。そのことに対しての自覚がない人が多い。それはなぜかというと、彼らがニュースソースを月曜~金曜に開いている官公庁にだけ合わせているからなのです。ニュースソースがそういうところにしかないと思っている人たちがいる。本当は土日に無名の人たちがやっていることの中にニュースがあるのに。

 ニュースっていうのは本来、自分で見つけてくるものなんですよ。ところが、発表ものに慣れてしまい、それを上手くリライトするのが自分の仕事だなんて思っている人が8割くらいになってる。それが記者たちがデモや脱原発の動きに鈍感になってしまっている原因だと思います。

 ジャーナリストがサラリーマンじゃダメなわけですよ。そこを分かってない人が多すぎる。企業メディアが巨大化し過ぎ、そこで働いている記者たちがサラリーマンみたいになり、土日は人並みに休む……みたいになったらアウトです。しかし、それが今起きていることです」

本当の「公共性」「中立性」とは何か?

 テレビメディア側の「公共性」「中立性」への過度な意識は、日本のデモ報道を矮小化させている理由の一つになっていると、私は前述した。この辺りについてはどうお考えなのだろう。

「公共性っていうものがマジョリティだと思っているのは一番バカな考え方で、パブリックっていうのは、数の多い少ないで決まるものじゃないんです。例えば、普段暮らしている人たちから見れば、水俣病の被害者は少数ですよ。でも、その人たちを救うことは日本全体の公共性につながってくる。でも、そういうことが見えない人たちがいる。

 中立とか客観ということを、きちんと訓練をもって考えたことのない人たちがいるんです。客観性・中立性を、“左と右の中間点を取ること”とか、“左右両論併記すること”などと思っている。そういう人たちは、本当にゼロから勉強し直したほうがいいですよ。メディアを志してきたのであれば、考えて考えて考え抜くってことは当たり前のことですが、そういう訓練ができてない。

 そういう人たちが戦争中は翼賛報道をやるんです。大本営発表をずっとやって、これが大多数だと思ってやる。そういう人たちってのは、全く何も学んでない。僕たちの戦後ジャーナリズムがどういうところから出発したのか、そうした歴史認識が全くできてない人たちが、今メディアを担っているってこと自体が間違いなんですけどね」

「公共性」「中立性」に関して、私にはお聞きしたい話がもう一つあった。大飯原発再稼働デモを巡る報道に関してだ。

 今年5月に全国の原発が一旦停止した後、7月1日に大飯原発が再稼動することになった。大飯で何が起きるのかを見ておこうと思った私は、現場へ行った。その前日の夕刻、再稼動阻止を主張するデモ隊が、原発構内入り口で車を繋ぎ、バリケード封鎖を行った。原発敷地内のある施設にいた私は、半日ほどそこから出られなくなったが、そのことでデモ隊や警察、機動隊側の対応などを間近に見ることができた。現地の方の複雑な声をいろいろ聞くこともできた。

 少数だが、テレビメディアも取材には来てはいた。しかし、私たちのようにバリケード封鎖の内側にいて取材を続けていた人など、テレビメディアの人間では一人もいなかった。

 再稼動に至る政局に関しては連日のように報道してきた一方で、再稼動という現実を目の当たりにした当日に、地元の声や再稼動反対を唱える人たちの声を、テレビはどこまで真剣に拾おうとしたのか、私には甚だ疑問だった。大飯原発再稼働デモにおける「公共性」「中立性」について、金平さんはどうお考えになったのだろう?

「以前なら、そこにもたくさんの記者がいたと思います。その中にいたと思う。今では多くの人がそれを遠くから見ている。それが客観性・中立性と思っている人もいる。バカじゃないかと思いますけど、たぶんそういう記者を作っちゃった責任は僕らにもあるので正直に言いますが、この期に及んでそんなこと思っている人たちは、今起きていることがどういうことなのか、もうちょっと考えた方がいいと思いますけどね。あまり僕は恥じるつもりもないですけれど、ただ、今のメディアの機能不全ぶりってのは、見てて忸怩たる思いがあります」

15万人の憤りよりも、大量発生したカンガルーが重要 ?

「公共性」「中立性」はメディアの影響力の大きさを考えれば、たしかに重要だろう。

 しかし、今は、福島第一原発から大量の放射性物質が垂れ流し続けられ、その事故のために避難を余儀なくされている15万人以上の方がいる “有事”時なのだ。

 メディアの内側にいる人間が、その「公共性」「中立性」を考え抜いた結果、冷静でありつつもマスメディアが“ある立場を選択して”、それを報じていくということは、極めて当り前のことであり、重要なことなのではないのか。しかし、現状はその対極にある。

 金平さんのお話を伺いし、私にはやはりそう思わざるを得なかった。

 例えば、今年7月16日の『さよなら原発10万人集会』は、おそらく15万人以上もの人が集まった大規模集会デモだった。ところが、ある民放キー局の報道番組は、この集会を30秒程度しか報じない一方、同日・同番組の放送で『オーストラリアのカンガルー大量発生』を4分以上もの時間、扱っていたのだ。

 カンガルーかよ。正直、そう思った。

 非常に残念ではあるが、これも地上波キー局報道の一つの現実なのだ。

 この現実は、現場の人間が具体的に作っている。現場のテレビマンをそうさせているものの一つが、山路さんの言う「コンプライアンス」という外からの足枷であり、金平さんの言う「記者の内発的問題」という内からの足枷なのだろう。

 自分の足で歩き、情報を拾っては自分の頭で考え疑い、得た情報を人に伝えていくこと。これは別に報道に携わる人間でなくとも、ごく普通の社会人でも要求されるような当り前のことだ。この当たり前の作法が、情報を発信するプロの現場で、歪み疲弊しているように見える。

 が、未だ最も影響力のあるメディアを動かし作るテレビマンが、そんなことでは困るのだ。テレビメディアの歴史とともに自分自身の生きてきた歴史、それらと正面から対峙してほしい。闘ってほしいと切に願う。
(文=織田直幸)

【注】東海村JCO臨界事故のこと。1999年9月30日、株式会社ジェー・シー・オー(JCO)の核燃料加工施設で起きた原子力事故で、日本国内で初めて事故被曝による死亡者を出した。

【本連載のアーカイブ】
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織田直幸

織田直幸

株式会社ゼロ社・代表取締役。プロデューサー/編集者

2012年8月、㈱カンゼンから書き下ろし小説、テレビメディアの崩壊と再生を描いたアクション小説『メディア・ディアスポラ』が上梓された

メディア・ディアスポラ

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