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競馬界のカリスマ武豊は如何にして全国区の騎手となったのか。若かりし天才をG1初制覇に導いたのは、あの「カリスマ総帥」の信念だった

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 物語は武豊が19歳、スーパークリークが3歳を迎えた1988年の秋から始まる。

 もともと晩成型のスーパークリークだったが、能力の高さで春のクラシック出走をつかみかけていた。しかし、日本ダービーの出走を目指していた矢先に左前脚の骨折が判明......。

 半年間の休養を余儀なくされて迎えた、秋初戦の神戸新聞杯(G2)。しかし、ブランクのためかスーパークリークは本来の伸びを欠き3着に敗退。それも当時の神戸新聞杯は菊花賞トライアルではなかったため、3着では賞金が加算できなかった。

 秋の大目標となる菊花賞の出走を確実なものにするため、なんとしても出走権を掴みたかった陣営は、続く菊花賞トライアル京都新聞杯(G2)への出走を決断。休養明け叩き2走目となるスーパークリークは今度こそ本領発揮を期待されたが、他騎手が振るったムチが顔に当たるなどの不運もあり6着敗退......。菊花賞への出走は、完全に不透明なものとなってしまった。

 結局1988年・秋、第49回の菊花賞には36頭が登録。レースが行われる京都競馬場のフルゲートが18頭であることに対し、スーパークリークの出走順位19番目。つまり回避馬が1頭も出なければ、菊花賞に出走することすらできないということだった。

 それでも諦めきれない陣営は、スーパークリークを菊花賞に向けて仕上げていく。幼少の頃からスーパークリークを鍛え上げてきた伊藤修司調教師は「絶対にスーパークリークに乗った方がいい。勝てるから」と武豊騎手に伝え、まだG1勝ったことがなかった武豊には他にも乗れる馬がいたが「クリークがダメなら仕方ない」と腹を括った。

 ただ、舞台は牡馬クラシックのトリを飾る菊花賞。「強い馬が勝つ」といわれる伝統のレースを勝ちたいのは、当然スーパークリークの陣営だけではない。数千頭のライバルを退け、わずか18しかない出走権を掴んだ他馬の陣営が、そう簡単にそれを手放すはずもなく、一頭の回避馬も出ないまま菊花賞は、出馬投票の締め切りを迎えようとしていた。

 しかし、スーパークリークと武豊の運命は"ある男"の決意によって大きく急転する。

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