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外川淳「日本史の真相」

織田信長を殺したのは、明智光秀ではなかった?黒幕は宣教師?新説・本能寺の変

文=外川淳/歴史アナリスト
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織田信長を殺したのは、明智光秀ではなかった?黒幕は宣教師?新説・本能寺の変の画像1本能寺跡地
 織田信長は、京都・本能寺で配下の明智光秀の謀叛によって敗死した――。これは、教科書にも記載される歴史的事実として多くの人々に記憶されている。

 八切止夫氏は、1967年に『信長殺し、光秀ではない』(講談社)を上梓し、「本能寺を襲撃したのは明智光秀でなく、信長はイエズス会宣教師が持ち込んだ爆薬で殺害された」という衝撃的な新説を提唱した。八切氏は、すでに存在する文献を再分析しながら、独自の論旨を展開。最終的には、イエズス会が本能寺の変に関与した決定的証拠が海外にあり、自身が見たとすることにより、自説の正統性をアピールした。

 だが、文献の解釈が歴史学の常道を無視していたことから、歴史学者の圧倒的多数は否定的見解を公表することもなく、八切説を黙殺した。八切氏の名は一部の熱烈な支持者を除き、忘れ去られつつある。その一方、「信長襲撃犯は、ほかにいる」という新説の与えた衝撃は大きく、本能寺の変を主題とした小説や評論において、今に至るまで影響を与え続けている。

 加藤廣氏の『信長の棺』(日本経済新聞社)は、時の首相が愛読したことで話題を集めた。同書では、「信長は、光秀の襲撃を受けながら、南蛮寺への抜け穴の存在により、脱出できるはずだった。だが、羽柴秀吉の配下が抜け穴を封鎖したことから、窒息死する」という設定が用いられている。

 立花京子氏は『信長と十字架―「天下布武」の真実を追う』(集英社)で、「信長は南蛮勢力(スペイン・ポルトガル)の指示にもとづき、国内の統一を推進していた。にもかかわらず、イエズス会の宣教師は、信長の存在を危険視し、光秀に対して信長襲撃を命令した」という衝撃的な説を提唱した。ある意味では、八切説の進化系に分類はできるのだが、数多くの文献を駆使しながら論旨を展開しており、空想に等しい八切説とは一線を画した。ただし、信頼性の高い公家が残した日記や、イエズス会関係の海外史料への解釈の方法が飛躍的だった。そのため、歴史学者たちは黙殺するというより、腫れ物に触れないようにしたとも表現できる。なお、立花氏は理工系学部の出身ながら、50代から歴史研究に目覚めたという異色の経歴もあってか、今までにない斬新な織田信長像を数年前に病没するまで構築し続けた。

 明智憲三郎氏は、『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社)において、光秀の子孫の立場から、独自の説を展開して注目を集めている。

 藤本正行氏と鈴木眞哉氏は、『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』(洋泉社)などの中で、立花説や明智説をはじめ本能寺の変にまつわる新説に対し、否定的見解を提起した。立花説については、信頼性の高い文献の分析を基盤としていたため批判しがたい状況の中、ほかの史料の提示や異なる視点から否定している。藤本氏や鈴木氏は、大学や研究機関の束縛を受けないこともあり、自由な立場から腫れ物に対する処方箋を示すことができたともいえる。

 では、どんな束縛があるかというと、それを誤解なく表現することは不可能に等しい。小説家や評論家は、本能寺の変や織田信長に限らず、歴史の謎に対し文献にこだわることなく大胆な解釈を加え続けている。一方の歴史学界においては、文献の解読と解析という地道な努力を継続している。この2つの流れが交わることなく棲み分けされているのが、歴史界の現状なのだと思う。

 歴史好きの立場からすると、そんな2つの流れがあることを知っていれば、今までとは違う視点から、歴史と接することができよう。
(文=外川淳/歴史アナリスト)

※参考文献:「歴史人」(ベストセラーズ/7月号)記事『本能寺の変 信長を殺ったのは誰だ!』

外川淳/歴史アナリスト

外川淳/歴史アナリスト

1963年、神奈川県生まれ。早稲田大学文学部日本史学専修卒。歴史雑誌の編集者を経て、現在、歴史アナリスト。徹底した史料の調査と、史跡の現地検証によって歴史の真実を再構築しながら、わかりやすく解き明かす手法により、歴史ファンの支持を集める。戦国から幕末維新までの軍事史を得意分野とする

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