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任天堂、故・山内前社長の歴史から透ける、任天堂躍進の秘密と成長神話への陰り

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任天堂、故・山内前社長の歴史から透ける、任天堂躍進の秘密と成長神話への陰りの画像1任天堂本社(「Wikipedia」より/Moja)
 世界的なゲーム機メーカー、任天堂の前社長・山内溥が9月19日午前、肺炎で死去した。85歳だった。通夜は21日、葬儀は社葬として22日に任天堂本社で行われ、葬儀委員長は同社の岩田聡社長、喪主は長男の克仁が務めた。

 山内は一匹狼だった。功成り名を遂げた経営者は地元の商工会議所の会頭や経済団体の会長となり、対外的な活動に力を入れて勲章を狙う。だが、山内は「会社を経営するのは雇用を吸収した上で納税するのが目的。経済団体に参加する必要はない」と言って、京都財界には顔を出さず、生涯「娯楽屋」を貫き通した。

 一時的な成功に浮かれなかったのは、盛者必衰の歴史に彩られた京都に育ったからだろう。山内自身は、「いつ潰れても不思議ではない」といわれた任天堂の苦しい時期をくぐり抜けてきた。ファミコンがヒットするまで「このまま、パッとしないまま社は終わるのではないかと思った」と述懐している。

 任天堂の社名は「運を天に任せる」に由来する。付言するなら山内は「運を天に任せたりせず、人事を尽くして天命を待つ」人だった。

 任天堂の創業は1889(明治22)年、有名な工芸職人だった山内房治郎が京都の平安神宮の近くに「任天堂骨牌」を創立、花札の製造を開始したのが始まり。花札の裏に「大統領」の印を押した「大統領印の花札」は関西の賭博場で広く使われた。プロの博打打ちは勝負のたびに新しい花札を使ったから、任天堂の花札は良く売れた。1902(明治35)年に日本で初めて国産トランプを製造したのも房治郎だ。

 房治郎には跡継ぎとなる男の子がいなかったため、2〜3代目は婿養子を迎えた。溥は27(昭和2)年11月、3代目の長男に生まれた。房治郎の曾孫に当たり、山内家、念願の男の子である。5歳の時、父親が出奔。母親からも離されて、祖父母の元で跡取りとして育てられた。「花札屋のボンと呼ばれるのが嫌で仕方なかった」と語っている。敗戦後、祖父が買い与えた東京渋谷・松涛の豪邸から早稲田大学法学部に通い、ビリヤードに熱中。ほとんどの学生が貧乏な生活をしているなか、贅沢三昧の生活を送った。祖父が病に倒れ、大学を中退して京都に戻り家業を継いだ。49(昭和24)年、22歳の時だ。

 花札とトランプが下火になり、「脱花札、脱トランプ」を目指し開発部を新設。新製品の開発に力を入れたが、いずれも短命に終わり、オイルショックで倒産の危機に直面した。

 そして1983年、任天堂はテレビゲーム「ファミリーコンピュータ」(略称:ファミコン)を発売した。テレビにつなげると、ブラウン管の画面を利用してさまざまゲームが楽しめるカセット式ゲーム機である。山内は粗悪なソフトに依存しなければ成功すると判断して、独自のソフトを開発した。任天堂は最後発のテレビゲーム機メーカーで、「もう遅い」との声が高まるなか、山内は一気に100万台を超す大量生産を決断、販売価格を1万4800円とした。3~5万円はする他社のゲーム機の半値以下という破格の値付けだった。

 山内の読みは当たった。子供たちの間で爆発的な人気を呼んだ。ファミコンの大ヒットで、任天堂は黄金期を迎えた。花札とトランプをつくっていた同社は、「ゲームのニンテンドー」へと大変身を遂げた。

 大成功しても山内は浮かれることはなかった。「娯楽の世界は天国か地獄かだ。真ん中のない世界や」。山内は社長に就任して以来、倒産の危機を3度経験した。だから、ファミコンが大ヒットしてからは無借金経営に徹した。ひたすら預金して、売り上げをはるかに上回るキャッシュを保有した。1度や2度、ヒット商品が出なくても、びくともしない経営体力にするためだった。

●高機能路線の否定

 山内の目標設定は明確だ。面白いソフトを追求する。「任天堂のゲーム機は、あくまでおもちゃだ」として高機能化をいさめた。これは「NINTENDO64」の失敗に起因する。スーパーファミコン(90年発売)の後継機種として96年6月に発売したのが家庭用ゲーム機「NINTENDO64」である。当初は次世代ゲーム機戦争の本命として期待され、「ゲームが変わる。64が変える。」のキャッチコピーとともに登場した。だが64は失敗した。ゲームのコンテンツ(内容)よりも性能を追求して、高機能競争に走った結果、消費者からそっぽを向かれたのだ。

 この反省から、マニアだけにしか受け入れられないような路線を否定した。次世代ゲーム機でいたずらに性能競争することは、一般ユーザーに対する敷居を高くするだけで、ゲームビジネスの危機を招くというのだ。

 山内には、どんなゲームが面白いかを嗅ぎ分ける嗅覚があった。任天堂を世界的大企業に押し上げた功労者に、専務でゲームデザイナーの宮本茂がいる。彼がデザインしたゲームソフト『スーパーマリオブラザーズ』は、世界一売れたゲームとしてギネスブックに登録されている。カメ一族にさらわれたキノコ王国のお姫様ピーチを助け出すために、マリオ兄弟が敵たちを倒しながら陸海空を突き進むゲームで、社会現象ともいえる空前のブームを巻き起こした。「マリオの父」と呼ばれる宮本は、山内についてこう語っている。

「山内さんが社長だった時、どんな冒険がうまくいって、何が売れないかには独特の嗅覚がありました。『スーパーマリオブラザーズ』を見せた時の言葉は今も覚えています。『これはすごいね。地上と、空の上と、水中さえ行くことができる。こりゃ、みんな驚くだろうね』」

 山内は2002年に社長を退任、相談役に退いた。この時、山内が残した言葉は「これまで同様、楽しさと面白さを追求してほしい」だった。

●成長神話に陰り

 04年12月に発売した携帯用ゲーム機「ニンテンドーDS」、06年12月に発売した据置型ゲーム機「Wii」が世界的に大ヒットし、任天堂は世界に冠たる優良企業に成長した。だが、同社の業績は徐々に悪化し、10年9月中間連結決算は赤字に転落。任天堂の成長神話は、ひとまず終わったと指摘する声もある。

BusinessJournal編集部

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