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浮世博史「日本人が知らなかった、ほんとうの日本史」

もはや爽快!あの男の「恥知らず」処世術!織田信長を裏切り→逃亡→秀吉の家臣…

文=浮世博史/西大和学園中学・高等学校教諭

もはや爽快!あの男の「恥知らず」処世術!織田信長を裏切り→逃亡→秀吉の家臣…の画像1荒木村重錦絵図(「Wikipedia」より/M-sho-gun)
 私の親戚には軍人が多かったため、子供の頃、お盆やお正月に親戚が集まると、よく戦争中の話を聞かされました。

 駆逐艦に乗っていた元海軍の叔父がいたのですが、こんな話を聞いたことがあります。

「艦船に乗っている時は、なんだかこっちがやられてばっかりのような気がすんねんなぁ。近くに水柱が上がる、被弾する、火が出る、消火する、負傷者を運ぶ、持ち場に戻ってまた撃つ……。やられっぱなしのような気がするんやけど、終わってみれば勝っていた、なんてことはしょっちゅうやった」

 戦いの前線にいると、敵の被害よりこちらの被害ばかりが目につき、全体では勝っていても、負けている印象が強い、ということのようです。

 さて、今回は織田信長の有能な部将の1人である、荒木村重の話です。

 村重は、信長に仕えて高い評価を受け、次々に重要な役割を与えられて出世しました。その村重が、信長を裏切ります。

 昔から、村重の裏切りは大きな謎とされてきました。もともと、村重は摂津国の池田城主、池田家の家臣でした。ところが、近畿地方における勢力拡大を図る三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)から誘われ、池田勝正を追放して池田家の実権を握ります。

 こういった点を鑑みても、村重は戦国時代の下剋上の空気をいっぱい吸っていた人物だと思います。その後、信長の勢力拡大と近畿地方への進出を受け、村重は三好家から信長の配下に移りました。

 足利義昭が信長に追放され、室町幕府が滅亡した1573年に、村重は茨木城の城主を任されます。さらに、伊丹氏を退けた功績を信長に認められ、摂津の支配にまで力を及ぼしました。

 そして、石山本願寺攻めや紀州征伐など、信長にとって重要な戦いにおいて、村重は活躍します。播磨国の豊臣秀吉、丹波国の明智光秀、そして摂津の村重。この3人が、信長による中国の毛利攻めの最前線にいたのです。

 しかし、78年10月、村重が突如、信長に反旗を翻しました。『信長公記』や宣教師のルイス・フロイスが書いた『日本史』を見ると、信長もその裏切りを不思議に思い、光秀らを派遣して事情の説明を求め、「話し合おう」と申し入れをしています。

 それを受け、一度は安土城に向かった村重でしたが、「やはり行かぬ」と引き返し、有岡城に入りました。村重自身も、迷っていたのでしょう。私は、この村重の裏切りについて、2つの説を考えています。

驚きの「転職」を繰り返した村重

 まず、村重はそもそも「本願寺と毛利が、信長に勝つのではないか?」と考えてしまったのではないでしょうか。摂津という本願寺勢力や、毛利の水軍に接する最前線にあって、「これ、勝っているのかな? 負けているんじゃないのか」と不安に思うようになったということです。

 経歴を見ると、村重は「勝っているほう」に身を置いて、ステップアップしてきた人物です。池田氏を裏切り、三好三人衆を裏切り、そして次は信長を裏切る……。別に、不思議でもなんでもないような気がします。

 もうひとつの説は、以下のようなものです。

 サラリーマンでもそうですが、「自分が変わって出世するタイプ」と「場所が変わって出世するタイプ」の2つがあります。

 会社が新しい仕事を与えた時、自分を変えてその仕事に順応する人もいます。一方、「この仕事は、自分の求めていたものと違う」と考えて、自分のやりたいことを実現できる環境に身を移す人もいるでしょう。

 特に、転職することでステップアップしてきた人の場合、会社と自分の求めていることが違うと感じた時にはあっさりと転職する、ということがよくあります。

 他人からすれば、「給料もいいし、いい仕事を与えられているのに、なんで辞めるんだ?」と思いますが、世の中にはそういう人もいるということです。村重も、そういったタイプだったのかもしれません。

 信長にしてみれば、村重を粗略に扱ったつもりはないでしょう。しかし、村重は本願寺攻めから外され、責任者は佐久間信盛に代わり、中国攻めも秀吉が責任者になりました。

 村重が「おれ、摂津にいるのに、いったい何をするんだ?」と思ったとしても、不思議ではありません。

 この2つのどちらか、あるいは両方の要素が重なり、村重は信長を裏切ったのかもしれません。さて、裏切った後の村重ですが、有岡城で徹底的に抗戦した後、家臣も城も捨てて逃亡してしまいます。

 歴史上から姿を消したのかと思いきや、信長が本能寺の変で倒れた後、なんと秀吉の家臣となり、千利休に弟子入りしました。そして、「利休七哲」と呼ばれる利休の7人の弟子に名を連ねることになります。これまた、驚きの「転職」といえるでしょう。
(文=浮世博史/西大和学園中学・高等学校教諭)

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