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丸茂潤吉「歴史的人物の恥ずかしい過去、知られざる過去」

豊臣秀吉はアルツハイマーだった?晩年の奇行、謎だらけの茶会中止…

文=丸茂潤吉/作家
豊臣秀吉はアルツハイマーだった?晩年の奇行、謎だらけの茶会中止…の画像1豊臣秀吉(「Wikipedia」より/Tabularius)

 1587(天正15)年、九州を平定した豊臣秀吉は、京都の北野天満宮で「無礼講の大茶会」を開催した。世にいう「北野大茶会」である。

『北野大茶湯之記』という史料によれば、秀吉は「身分は構わぬ。茶好きは集まれや。わし自らが茶を立てる。茶がないなら、麦こがしでもいい。中国や朝鮮、世界中から集まれ」と言ったという。

 そして、約2万坪の広大な敷地に茶人たちが集った。このイベントの目玉は、秀吉が来客者に直接お茶をいれてくれる“抽選会”だ。秀吉秘蔵の茶器も公開され、時代を代表する茶の湯のスター・千利休をはじめ、津田宗及、今井宗久など錚々たる顔ぶれが参加している。

 しかし、10月1日から10日間の開催と予告されていた大茶会は初日で終了し、翌日未明には後片付けが始まっている。

 なぜ、北野大茶会は突然終わってしまったのだろうか。今回は、この謎を解く鍵に迫りながら、茶会を振り返ってみたい。以下、有力とされる7つの説を検証していこう。

今も謎が多い突然の茶会中止

(1)一揆の勃発が影響した説

 茶会の当日、秀吉が茶を楽しんでいると「九州で一揆が勃発した」という報が入る。肥後国(現在の熊本県)を治めていた佐々成政が失政したのだ。

『多聞院日記』によれば、秀吉はこの情勢の急変により、急遽茶会を中止したといわれている。ただ、この説が決定的でないのは、『多聞院日記』の著者である英俊は北野大茶会に参加しておらず、日記の解釈に異論があるからだ。

(2)“人間ミキサー”疲労説

 秀吉は茶席に座りっぱなしでひたすら茶をかき回し続けた結果、疲労困憊してしまい、初日で音を上げたというものだ。これは、日本史学者の芳賀幸四郎が『千利休』(吉川弘文館)で論じている。

 当日の客数を『兼見卿記』に従い803人とすると、千利休らを含め4人で臨んだとしても、1人当たり200人はさばかなければならない。いずれにせよ、相当な負担だったことが予想される。

(3)もともと、初日のみ開催予定だった説

 開催直前に「1日限り」に変更されたとする説だ。これは、歴史学者の村井康彦氏が唱えている。つまり、茶会は予定通り行われ、予定通り終わったということだ。

 根拠となるのは、千宗巴が兄の利休あてに送った手紙に、初日の朝の茶会しか触れられていなかったことだ。歴史学者の桑田忠親が紹介した利休の書状にも、茶会初日の道具組しか書かれていない。

(4)好きなグループをめぐり、利休と衝突した説

 数年後に朝鮮出兵を考えていた秀吉は、この茶会を通じて博多衆を重視しようと考えた。しかし、利休の演出があまりに堺衆を目立たせるものであったことから、秀吉が中止に踏み切ったとする説だ。これは、『茶道古典全集』(淡交社)所収の『北野大茶湯之記 解題』で触れられている。

 ただ、この説は「人間ミキサー疲労説」の芳賀によって、否定的な見解が示されている。理由は、肝心の博多衆を秀吉がそれほど招待していないこと、利休だけが演出者ではなく、最終的な人選の決定権が秀吉にあったこと、などだ。

(5)結局、客があまり来なかった説

 秀吉主催の一大イベントだが、必ずしも成功していたとは限らない。むしろ、失敗していた可能性もある――。茶道史が専門の日本史学者・中村修也氏による、秀吉のメンツ説だ。

 複数の史料を総合すると、北野大茶会の来客者は800~1000人ほどだ。広大な北野天満宮の敷地で、初日にこの人数しか集まらなければ、秀吉が「賑わっているうちに取りやめよう」と考えても無理はない。

『秀吉の智略「北野大茶湯」大検証』(淡交社)には、「万の軍勢を動かしてきた秀吉には、少々寂しく感じられた」という記述がある。

晩年は奇行が目立った秀吉

(6)すべての説を覆す、天候説

 異色なのが、この天候説だ。秀吉は、自然現象には手痛い目に遭わされてきた。最たるものは、晩年の1596(慶長元)年7月だ。この夏、伏見城は地震で天守閣が淀川に崩れ落ち、御殿が大破した。これが、大茶会という祝賀イベントに影響を与えてはいないだろうか。

 そもそも『北野大茶湯之記』などで紹介されている高札には、開催の条件に「天気次第」とある。初日は晴れたとしても、その後、開催に支障が出るような天気の乱れがあったのかもしれない。北野天満宮周辺が局所的にどうだったのか不明だが、2日目までに台風などの自然現象が発生し、茶会の開催を阻んだ可能性もある。

 この説であれば、中止は自明のことであるため、その理由をあえて説明する必要もない。天災による中止を忌み嫌い、文献などであえて触れていない可能性もある。

(7)秀吉のアルツハイマー病説

 作家・津本陽氏と脳神経外科医・板倉徹氏の対談本『戦国武将の脳』(東洋経済新報社)の中で、晩年の秀吉はアルツハイマー病の疑いがあったことが言及されている。

 津本氏が、伏見城が大地震に襲われた後の秀吉の奇妙な態度や、朝鮮出兵で確認された一貫性のない行動、感情の起伏などについて指摘すると、板倉氏はこう発言した。

「秀吉は、小さな脳出血を起こしていたという可能性はありますね。それがもとで、脳血管障害性認知症だった可能性もあります」

 秀吉の晩年の行動には、アルツハイマー病の兆候があったのだ。その秀吉が、10日間の開催予定を忘れたり、異常な判断によって茶会の継続が困難になっていたとしたら、どうだろうか。

 この説は、脳の病によって徐々に制御が利かなくなる権力者と、それに翻弄される人々という構図を思わせ、背筋が寒くなる話である。

茶道発展に貢献した北野大茶会

 以上、北野大茶会の中止にまつわる7つの説を取り上げてみた。作家・太宰治は『右大臣実朝』という小説の中で、平家を指して「滅びゆく直前こそ異様に明るい」と源実朝に言わせている。

 北野大茶会と双璧をなす花見イベント「醍醐の花見」は、徳川家康らの諸大名に仮装をさせ、秀吉自らも瓜売りに変装するなど、愉楽の境地に達していた。しかし、その数年前に朝鮮に兵を繰り出した「文禄・慶長の役」をきっかけに、秀吉の歯車は狂い始めていく。

 茶道研究家の西堀一三が北野大茶会を高く評価したように、現在まで茶道が続いているのは、秀吉の権威のもとで行われた北野大茶会のおかげであることは間違いない。現代風にいえば「秀吉ランド・お茶の未来館」ともいうべき一大興行だったわけだが、そういった意味を鑑みても、北野大茶会は大失敗に終わったと見るのが妥当だろう。

 しかし、茶の湯の意義という観点で北野大茶会を見ると、それまで密室で行われていた茶の湯が大規模な屋外テーマパークとして開催されたわけで、秀吉の遊び心が後の時代の茶人たちを刺激したことは間違いない。

 北野大茶会は、1936(昭和11)年に350周年を記念して同地で再現されている。
(文=丸茂潤吉/作家)

丸茂潤吉/作家

丸茂潤吉/作家

1975年生まれ、福岡県出身。編集プロダクション勤務後、フリーのノンフィクション・ライターとなる。ライフワークは、日本史中世の再読と現代貧困層の習俗分析

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