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【神戸山口組分裂・最新動向】任俠団体山口組が初定例会…またも古川組開催にこだわった理由とは?

文=沖田臥竜/作家
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【神戸山口組分裂・最新動向】任俠団体山口組が初定例会…またも古川組開催にこだわった理由とは?  の画像15月28日、尼崎の三代目古川組本部には、任俠団体山口組幹部らともに、多くの警察やマスコミが集まった。

 兵庫県尼崎市にある三代目古川組本部。4月30日に任俠団体山口組の結成式と記者会見が行われたこの場所に、5月28日、再び同団体の幹部たちが集結した。結成後初となる定例会が開催されたのだ。

 その数日前の5月22日には、同じく尼崎で神戸山口組にも動きがあった。任俠団体山口組結成当初、同団体で本部長補佐を務めていた、三代目古川組の組長代行も兼任する三代目琉真会・仲村石松会長が任俠団体山口組を離脱し、二代目古川組・古川恵一組長と合流。尼崎にある同本部に複数の大手週刊誌を集め、記者陣のインタビューに応えたのだ。ここでの古川組長の話の一部はこのようなものだった。

「三代目を譲った覚えはない。(中略)あの日(4月28日)の晩、私は焼き鳥屋で晩飯を食うとったんです。そこへ真鍋の池田(池田幸治・任俠団体山口組本部長、四代目真鍋組組長)が来たんです。(中略)『実は山健が割れたんや。(中略)東京も大阪も全滅や。(中略)せやから黙って引退してくれ。山崎(山崎博司・現三代目古川組組長)に代を譲ってくれ』と。(それに対して)私は『(言い分は)わかったよ。俺は一人になっても古川組二代目としてやっていくよ。これだけは、よう覚えとけ』と言ったのですが、彼らいわく、それが代目を譲ったという話になるんですよ。あの時は、一体なにを言ってるんだという思いが先で、頭の中を整理するのがやっとでした」

 以前、当サイトでお伝えした通り、神戸山口組の二次団体であった古川組は、二代目が引退しない状態のまま発足した三代目古川組が、任俠団体山口組に参加するという分裂状態になっていた。ところが今回、神戸山口組に残った二代目側に、三代目側の最高幹部が出戻ったかたちになったのだ。

 この模様は、先陣を切って5月25日発売の「週刊実話」(日本ジャーナル出版)が報じているのだが、そもそも琉真会とはいかなる組織で、仲村会長とはどのような人物なのか。

 発足当初に作成されたといわれる任俠団体山口組の組織図によると、三代目古川組・山崎組長は、任俠団体山口組では本部長補佐を務めているのだが、仲村会長もまた本部長補佐を務める予定だった。本来なら、二次団体組長とその組長代行が上部団体において同じ要職に就くことなどあり得ない。ここからも、仲村会長や同会長が率いる琉真会という組織の実力が、任俠団体山口組内部でも屈指の存在であったことがうかがえる。

 琉真会は、山口組入りする以前は沖縄抗争(1960年代から沖縄本土のヤクザが内部分裂を繰り返しつつ、長きに渡り繰り広げられた抗争事件)の第四次抗争で名を馳せた。当時は東亜友愛事業組合(現・東声会)の沖縄支部だった組織で、三代目山口組系大平組内古川組への加入と同時に、琉真会と名称を新たにしたといわれている。それだけに知名度は全国区で、初代古川組、二代目古川組内で影響力を拡大してきた組織なのだ。

 また某週刊誌では、二代目古川組の古川組長を残して、当初はすべての古川組傘下団体が任俠団体山口組へ参画していたと報じられたが、それは間違いである。二代目古川組の預かりという立場だった大興會という団体は、中村彰宏会長が社会不在を余儀なくされていることなどから、任俠団体山口組の結成式には参加していない。

 そもそも古川組は、同じく尼崎市内にあった大平組傘下であったが、三代目山口組時代に直参へと昇格を果たしている。一方、大平組は2014年に解散しているが、二代目大平組時代に若頭を務めていたのが大興會の中村会長で、その大平組の伝統を受け継ぐ組織として発足したのが、「大平を興す會」つまり大興會なのだ。

 ちなみに、この大平組の初代組長こそが、山口組史上初となる「本部長」の重職を務めた大平一雄組長で、その伝統を四代目山口組から六代目山口組時代まで二十数年にわたり守り続けたのが、二代目大平組・中村天地朗組長(引退)である。 

六代目分裂時にも古川組に動きが

 実は、古川組やその傘下組織をめぐる不規則な動きは、六代目山口組分裂時にも起こっている。

「二代目古川組体制発足当時に若頭を務めていたある関東の組織は、六代目山口組が分裂した後、古川組を離脱している」

 地元関係者はこのように語っているのだが、これは関東における縄張り問題にあったのではないかといわれている。この関係者によると「二代目古川組が六代目山口組から神戸山口組に移籍した際、この傘下組織は関東の他団体(山口組以外の組織)から、『神戸に行くのであれば、出ていってもらわなければ困る』といわれた経緯があったため、現在は古川組から離脱し、一本(六代目山口組にも神戸山口組にも所属せず)というかたちで組織を運営している」と話している。

 六代目山口組や同団体との関係性を重視する山口組以外の組織にとっても、古川組の動向は常に注目されてきたのだ。

 そして、神戸山口組が分裂した4月末以降、二代目古川組の古川組長は、神戸山口組の一員として琉真会本部でインタビューに応え、任俠団体山口組は三代目古川組本部で結成式や初の定例会を開催するなど、両団体とも古川組の存在にこだわりを見せている。

 その一番の理由は、四代目山健組という大組織の存在に関係しているのではないだろうか。ご存じの通り、神戸山口組のトップは、その中核団体である四代目山健組の井上邦雄組長が務めている。その井上組長体制を公然と批判して神戸山口組を割って出たのが、四代目山健組副組長だった任俠団体山口組の織田絆誠代表だ。これをもって、今回の分裂は四代目山健組内の権力闘争が発端ではないかと見る向きがあるのも事実だ。

 こうした見方に対して、神戸山口組も任俠団体山口組も、有力団体である古川組を自陣に置くことで、「今回の分裂は単なる山健組の内紛ではない。もし、そうであるならば、三代目山口組時代から直参だった伝統ある古川組が、自分たちに賛同することはない」ということを強調したいという可能性がある。両団体は古川組を傘下に収めることで、自分たちが「私利私欲」「不平不満」の末にできた組織ではなく、山口組の正統な流れを汲むものであるという大義の裏付けにしているとも思えるのだ。

任俠団体山口組の大義と矛盾

 大義といえば、任俠団体山口組の織田代表が「週刊現代」(講談社)のインタビューで明らかにしたのが、今後、山口組の「脱反社(反社会的勢力)」を図り、治安維持や犯罪抑止活動をする民間国防隊としての役割を担うというものだが、捜査関係者によれば、最近、それに矛盾する動きがあったとも話している。

「5月18日に、尼崎で約20名近くの任俠団体山口組系組員が集まり、繁華街を練り歩くような動きを見せ、地域住民からの苦情が寄せられた。治安維持を謳うのであれば、住民を不安視させるような動きは違うだろう。結局、組織力を見せつけるかのようなデモンストレーションを取る行為は、なんらこれまでの暴力団と変わらないではないか」

 こうして尼崎という土地や古川組に俄然注目が集まるなか、現在の事態を六代目山口組はどのように捉えているのか。また、現在、府中刑務所に服役する六代目山口組の最高実力者、高山清司若頭には、どのように伝えられているのだろうか。

 5月22日、琉真会本部事務所内で記者陣を前に自身のこれからの進退について問われると、古川組長はこのようなことを述べたといわれている。

「ケジメですから、最低限ヤクザのルールだけは守っていかなければならない」

 この言葉の裏側には、先々の考えが含まれているように感じてならない。

 4年前、分裂を迎える以前の六代目山口組の定例会へと著者が代理出席するために向かっていた車中で、同乗していた古川組長は誰に呟くでもなく、過ぎ行く窓の外の景色に目をやりながら、このようなことを口にしていた。

「オレは出世を、あきらめた男やからな」

 その言葉が著者の脳裏で鮮明に蘇ったのであった。

(文=沖田臥竜/作家)

●沖田臥竜(おきた・がりょう)
2014年、アウトローだった自らの経験をもとに物書きとして活動を始め、『山口組分裂「六神抗」』365日の全内幕』(宝島社)などに寄稿。以降、テレビ、雑誌などで、山口組関連や反社会的勢力が関係したニュースなどのコメンテーターとして解説することも多い。著書に『生野が生んだスーパースター 文政』『2年目の再分裂 「任侠団体山口組」の野望』(共にサイゾー)など。最新刊は、元山口組顧問弁護士・山之内幸夫氏との共著『山口組の「光と影」』(サイゾー)。

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