日本航空(JAL)は4月1日付で、赤坂祐二常務執行役員が社長に昇格し、植木義晴社長は代表権のある会長に就く。
経営企画部門が本流だったJALで、整備部門出身の赤坂氏の抜擢を意外とする向きもあるが、JALが2010年1月に会社更生法の適用を申請した後は、現場派が社長に就いている。
倒産後、社長に就任した大西賢氏は整備出身。その後を継いだ植木氏はパイロット出身。整備本部長の赤坂氏の起用は、“現場主義”の継続といえる。
赤坂氏は東京大学大学院工学系研究科航空工学専修コース修了後、1987年に技術系総合職(現在の業務企画職技術系)としてJALに入社。整備士として機体の整備に従事した。JALが倒産したときは、安全推進本部部長兼ご被災者相談部長を務めていた。
会社更生手続き終結後、植木社長の下で14年4月、執行役員および航空機整備会社JALエンジニアリング社長に就任。16年4月からJAL常務執行役員。現在はJALの整備本部長とJALエンジニアリングの社長を兼務している。
経営破綻直後に会長を務めた稲盛和夫氏が京セラから持ち込み、JAL再生の原動力となった「部門別採算制度」(アメーバ経営)と「JALフィロソフィ」(経営哲学)について、赤坂氏は社長交代会見で「今でも各職場では、毎朝『フィロソフィ手帳』を読んだり意味を確認したりしている。そうした地道な努力を継続してやっていく」と述べ、引き続き経営の根幹に位置付ける姿勢を示した。稲盛経営哲学の実践者であることがJALの社長になるための必要十分条件といえる。
JAL本流の企画、営業系の巻き返しが始まる
ダークホースだった赤坂氏が社長に決定したことで、さっそく「植木院政のための人選」と取り沙汰され、次のトップ(ポスト赤坂)争いが混沌としてきた。
倒産後、傍流である整備、パイロット出身のトップが続いたため、経営再建のメドが立ったら企画、営業系の、いわゆるJAL本流に大政奉還されるのが既定路線といわれてきた。経営中核の経営企画部門は、経営再建のために乗り込んできた稲盛氏に「JALの諸悪の根源」として解体されたため、復権は悲願である。
JALのエリート集団である経営企画が復活の切り札としている人物は、大貫哲也氏だ。JALが倒産したとき、経営企画室部長兼経営企画室事業計画・渉外グループ長、経営企画本部事業計画部長として経営中枢の事務方を仕切り、将来の社長候補といわれてきた。
稲盛氏体制下で、経営企画や営業の幹部は次々と放逐された。大貫氏は13年、ジェイエア社長に転じた。ジェイエアは大阪国際空港をベースに短距離輸送のリージョナルジェットでJAL国内線の3割を運航している。いわば“島流し”である。
稲盛氏から経営のバトンを引き継いだ植木氏はパイロット出身であり、現場派は専門職であって経営企画や営業のような総合職ではないため、経営を担う人材が育っていないという弱みを抱えている。
植木氏が現場派から引き上げたのが、CA(客室乗務員)出身の大川順子氏だ。倒産後、執行役員客室本部長に就任。植木氏体制下で常務執行役員、専務執行役員、取締役専務執行役員と昇進を重ね16年4月、代表取締役専務執行役員コミュニケーション本部長に就任した。JALの歴史のなかで代表権を持つ女性役員は初めてのことだ。
大川氏は東京2020オリンピック・パラリンピック推進委員会委員長を兼務する。東京オリンピックに外国人観光客を迎えるJALは、社長に大川氏を起用するのではないかとの見方があった。JALで女性社長が誕生すれば、「女性を冷遇している」との海外の評価を払拭できる絶好のチャンスだった。しかし、パイロットとCAは、いわば“身内同士”の関係で、大川氏の起用には慎重にならざるを得なかった。そこで、現場派から整備出身の赤坂氏の抜擢となったわけだ。
いかんせん、現場派は大川氏以外、“社長候補”のカードが残っていない。しかも、大川氏は63歳で、次を狙うのは難しいとの見方が大勢を占めている。ポスト赤坂をめぐり、企画と営業という、いわば本流の蠢動が始まるのは確実だ。
稲盛和夫氏が持ち込んだ部門別採算制度
JALが10年に倒産した際、稲盛氏は民主党政権の要請で、無給を条件にJALの会長を引き受けた。百戦練磨の経営者である稲盛氏は、JALの致命的な欠陥をすぐに見抜き、就任早々に「日航は八百屋も経営できない」と批判して多くの社員を憤慨させた。驚くべきことに、JALには利益について責任を持つ人物が誰もいなかったのだ。だからこそ「八百屋も経営できない」と喝破したのだ。
稲盛氏は会長就任直後、経営企画室の解体に乗り出した。運航や営業など現場を知らない一部スタッフが路線や投資計画など会社のあらゆる重要方針を計画立案し、上意下達で組織に下ろす。それにもかかわらず、彼らは結果に責任を負わない。無謀な拡大路線に走らせる原因となっただけでなく、この部署がJALのエリート意識と官僚主義を生む元凶と、稲盛氏は見なしたのだ。
稲盛氏はただちに、より現場に近い部門に権限を分散させ、経営企画部を解体した。重要な方針をオープンな場で議論することにし、表と裏で情報を使い分けて人を動かすことに長けた官僚タイプを封じ込めた。経営管理部と路線本部を発展させた路線統括本部が、路線開設についてのすべての権限と収益に責任を持つ体制に改めた。
路線統括本部が、稲盛氏が再生の切り札として持ち込んだ部門別採算制度を統括する、JALのヘッドクォーターとなった。部門別採算制度は「アメーバ経営」と呼ばれ、稲盛経営哲学の核心である。
稲盛氏は部門別採算制度の成果を高めるために、信賞必罰の実力主義人事を断行した。副社長に抜擢された人物が降格されたこともある。稲盛氏にとって、部門別採算制度の実践は、次期経営者の実地試験の場だった。部門別採算制度が順調に稼動するには、セクショナリズムを抑えるトップの強いリーダーシップが必要不可欠だったからである。
12年2月、植木氏を社長に昇格させた。植木氏の社長抜擢は、まさにサプライズ人事だった。社長の登竜門といわれた経営企画や営業、労務部門の経験がなくパイロット出身。裏を返せば、パイロットであることが、稲盛人事のキーワードだった。
経営そっちのけで内部抗争を繰り返したJALで、パイロットはしばしば先鋭化した。リストラしようにもスト権を行使されれば、飛行機が飛ばない事態を招く。これを恐れるあまり、過去に何度もパイロットのリストラ案は頓挫してきた。飛行機を止めるカードを握るパイロットの組合は強かった。
そのパイロット部門のトップにいた植木氏は会議で「会社が生き残るには(パイロットのリストラは)避けて通れない」と発言し、破綻前に3000人超いたパイロットを半分に減らした。
植木氏の言動が、再建にメドが付けば第一線を退くつもりだった稲盛氏の目にとまった。植木氏は稲盛直伝の部門別採算制度を路線管理で実行し、業績面でも寄与した。稲盛氏は植木氏を抜擢することで、喫緊の課題だった後継者問題にカタを付けた。ちなみに植木氏は、昭和期の剣戟映画の大スター、片岡千恵蔵の息子として有名だ。
JALの企業体質は改善されたのか
JALは11年3月、会社更生手続きを終結。12年9月、2年7カ月ぶりに東証1部に再上場した。会社更生法の適用を受け、企業再生支援機構からの3500億円の公的資金が注入された。欠損金の繰り越しが認められており、法人税が減免される。18年度まで受ける予定の優遇枠は1350億円程度。至れり尽くせりの優遇措置で、JALは世界でも屈指の収益力を誇る航空会社に生まれ変わった。
JALは多くの犠牲の上に立って再生できた。100パーセント減資によって、時価総額3000億円相当の株券が紙くずとなり、その影響を受けた46万人の株主がいた。5215億円の債権放棄を迫られた銀行団や、リストラされてJALを去った1万6000人の従業員がいた。
業績のV字回復を果たせたということは、その分、誰かにしわ寄せがいったということだ。この事実を忘れて、さも独力で再生できたかのような態度を取ることは、厳に慎まなければならない。稲盛氏が最も懸念していたのは慢心である。
「日航はつぶれた会社です。みなさんがおかしかったからつぶれたのです」
10年6月のリーダー研修会の冒頭で、稲盛氏はこう言い放った。JALの繁栄は、この時の危機意識をどこまで強く、長く持続できるかにかかっている。
17年4月、JALは国土交通省の監視を離れ、独り立ちした。だが、「親方日の丸的な体質」に戻らないという保証はない。経営破綻に追い込まれた最大の原因は、歴代経営陣や社員が「最後は国が助けてくれる」と高を括っていたことだ。収益回復のメドはついたが、企業体質が変わっていなければ元の木阿弥だ。
赤坂新体制の試金石は、羽田国際線の発着枠争いだ。増枠をめぐってANAホールディングス(ANA)とガチンコ勝負になる。
安倍政権は、民主党政権時代の成果のひとつであるJALの再生に厳しい姿勢を取り、注文をつけてきた。ANAに対するシンパシーのほうが強い。安倍政権の重要閣僚は、首相以下、路線があってフライトの時間さえ合えばANAに搭乗する。
ANAに羽田の増枠争奪戦で完敗するようなことがあれば、政権・官界工作をお手のものとする経営企画部門は復権へののろしを上げるだろう。
(文=編集部)