この街並みも日本との強調の結果ではある。
(「Thinkstock」より)
■三村明夫 (新日鐵第9代社長、日中東北開発協会会長)
豊富な資源とすぐれた産業基盤を有する中国東北地方(遼寧省、吉林省、黒龍江省、内モンゴル自治区)は、日本にとって地理的に近いだけでなく、長い交流の歴史を共有する地域である。
中国改革開放政策のもとで、この地方の対外開放の窓口として大連が沿海開放都市に指定された1984年、両国関係者の強い支持を得て、日中東北開発協会(当初名称=大連経済開発協力会,一年後に現名称に改名)が発足した。この地方とわが国との経済交流促進のためのかけ橋の役割を果してきた。
中国東北振興政策をはじめとする各地域開発計画などの中国経済発展のゆくえこそ、21世紀の歴史を左右する重要なキーポイントのひとつである。その中で、東北地方は製造業、農業、人材供給などの世界的な一大基地建設をめざし、巨大な市場を形成しようとしており、しかも、この地方ほどわが国との協力関係の進展を強く希望している地域は他にはない。日本としても、この地域との相互補完と協力関係を一層深めつつ、新たな経済発展の展望を開きたいと考えている。
これが三村の役割なのだ。
歴代の経団連会長に、中国側は、巧妙にそれぞれの役割を割り振っていた。
■土光敏夫 (東芝社長、第4代経団連会長)
日中間では78年2月、民間団体によって「日中長期貿易取決め」が締結され、同年8月、両国政府によって「日中平和友好条約」が締結された。同取決めは民間協定となっていたが、中国側の担当の中日長期貿易協議委員会は、政府機関同然であった。
中国政府の同取決め締結の狙いはふたつあった。ひとつは、中国の近代化に不可欠な日本の技術を導入するための外貨が不足したため、日本へ原油と石炭を輸出することによってそれを解消するという経済的な狙いであった。そして、具体的なプロジェクトとして宝山を第一に挙げた。もうひとつは、当時懸案となっていた日中友好条約の締結の後押しを含む「関係増大をフィーバーする」という政治的な狙いであった。
当時の中国はソ連の覇権主義に対抗するため、日本との友好関係を必要としていた。この点については、同取決めの調印式後に行われた副首相・李先念と経団連会長・土光敏夫、新日鐵会長・稲山嘉寛をはじめとする経団連訪中団との会談で、李先念は「日中長期貿易取決め」とは直接関係がない日中平和友好条約にも言及し、「日中平和友好条約について努力していただきたい」と土光や稲山などに要請した。