NEW
戦後唯一の経営破綻した都市銀・北海道拓殖銀行

バブルの象徴がまたひとつ…拓銀を潰したカブトデコムの正体

【この記事のキーワード】

,

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 カブトデコムという奇妙な社名は、創業時の社名であるカブト(兜)にDevelopment(開発)、Construction(建設)、Management(経営)の頭文字DECOMを組み合わせたものだ。

 大化けするのはバブルの時代。88年9月、社名をカブトデコムに変更。89年3月に株式を店頭公開した。初値は2300円。バブル景気の追い風に乗って、株価は高騰。翌90年7月に、株価は4万1400円という驚異的な高値をつけた。91年3月期には売上高1009億円を計上して、道内トップの建設会社に躍り出た。スコップ6丁で始めた会社を、佐藤氏はわずか20年で1000億円企業に育て上げたわけだ。

 当時、拓銀の役員は「家庭の事情で進学できなかったが、東大に入学できたほどの頭の持ち主」と、手放しで佐藤氏を称賛したものだ。

 拓銀はなぜ、カブトデコムの資金スポンサーになったのか。拓銀は北海道を振興するための国策銀行という生い立ち。頭取は代々、旧大蔵省OBで占められてきた。83年に生え抜き頭取として鈴木茂氏がトップに立った。鈴木氏が頭取に就任した当時、銀行経営は預金至上主義から融資拡大へと大転換を始めていた。住友銀行(当時)が磯田一郎頭取のもと、「向こう傷は問わない」と融資拡大に血眼になっていた時代である。

 融資先にこれといって有力な企業グループを持たないため、拓銀は都市銀行の万年最下位に甘んじていた。鈴木頭取は道内の新興企業を育成することで、このハンディを克服しようとした。インキュベーター(新興企業育成)路線の第1弾となったのがカブトデコム。拓銀から全面的な資金援助を受け、不動産投資を推し進めた。海外現地法人を相次いで設立して、米国やフランス、タイ、香港などで不動産事業を展開。90年秋にはホテルエイペックス洞爺を着工する。

 だが、バブル経済は崩壊。不動産市況の落ち込みから業績は悪化、93年3月期には赤字に転落した。佐藤会長は、93年12月に手形偽造容疑で札幌地検に逮捕された。長期裁判を経て、99年8月に無罪が確定した。

 拓銀が経営破綻して、カブトデコム向けの債権は整理回収機構に譲渡された。02年3月に、整理機構に対する債務3865億円のうち52億円について、10年9月を最終日として8年間で分割弁済する合意が成立した。唯一、生き残ってきた米国の不動産子会社の経営が悪化したため、残債6億円の支払いが困難になり、会社は解散することになった。

 経営破綻した拓銀は、98年11月に北洋銀行と中央信託銀行(中央三井信託銀行を経て現・三井住友信託銀行)に事業を譲渡し、06年に清算は終了した。拓銀は、都市銀行として戦後唯一、経営破綻するという不名誉な記録を金融史の上に残した。北海道の企業の大半が拓銀と取引があった。拓銀破綻の影響はそれだけ大きく、北海道経済が長期的に沈滞する元凶となった。

 今では「拓銀を経営破綻させたのは間違いだった」という評価が定着している。
(文=編集部)

バブルの象徴がまたひとつ…拓銀を潰したカブトデコムの正体のページです。ビジネスジャーナルは、企業・業界、, の最新ニュースをビジネスパーソン向けにいち早くお届けします。ビジネスの本音に迫るならビジネスジャーナルへ!

Ranking
  • 企業・業界
  • ビジネス
  • 総合

関連記事

BJ おすすめ記事