ビジネスジャーナル > 社会ニュース > 歴史消されたプロ野球本拠地の老後  > 2ページ目
NEW

プロ野球本拠地球場“老後”の悲喜こもごも〜栄光の歴史を消された“遺跡跡地”平和台の謎

【この記事のキーワード】,

 川崎球場よりもさらに寂しいことになっているのは藤井寺球場。敷地の北半分を学校法人四天王寺学園に、南半分を丸紅に売却したため、北半分には小学校の校舎、南半分にはマンションが建っている。往年の歴史を後世に伝える施設はなく、プロ野球再編騒動から5年後、四天王寺学園小学校開校時に、近鉄が彫刻家・玉野勢三氏に依頼して制作、藤井寺市に寄贈し、四天王寺学園が敷地内に設置してくれたブロンズ像のモニュメントがあるだけだ。

 だが、平和台野球場の状況は、藤井寺球場よりももっとひどい。藤井寺球場のブロンズ像は高さが110cm、大理石の台座も110cmと、全体では2mを超えるものだが、平和台野球場のモニュメントは平板状。しかも西鉄ライオンズOBが建てたものだ。平和台野球場跡地へは福岡市営地下鉄空港線赤坂駅からも、大壕公園駅からも行けるが、赤坂駅のほうが近い。球場のモニュメントはかつてスタンドへの入り口だった、壕の外側の明治通り沿い、平和台交差点付近の路上にある。周辺にモニュメントの存在を示す案内標識もないので、場所をあらかじめ知っていて赤坂駅から来ないと、まず見つけることはできない。

●球場は遺構の破壊者?

 平和台野球場の敷地内では現在も発掘作業が続いているが、とりあえず作業が終了した南側には鴻臚館跡展示場が建てられ、出土した遺物や遺溝が展示されている。だが、そこには遺構が見つかった外野スタンドの発掘現場の写真とその解説が掲示されているだけで、往年の大スターの写真や、熱狂する観客の写真など球場自体の歴史を語るものは一切掲示されていない。あたかも、そこに野球場があったことを無視するかのような扱いだ。

 なぜ野球場に関する資料が一切掲示されていないのか。その理由を展示場のスタッフに聞いてみたところ、返ってきた答えは「(球場の建設で)遺跡をずいぶん破壊したからですかねえ」だった。

 ここに古代の遺跡が眠っているであろうということは、87年に初めてわかったわけではない。遺跡や埋蔵物の発掘・保存への意識が社会全体として高まったのが、この時期だったにすぎない。すでに大正時代、九州帝国大学医学部教授で考古学研究の第一人者でもあった中山平次郎が、鴻臚館の遺跡の位置について、宮内町(現在の福岡市博多区中呉服町付近)とするそれまでの通説を覆し、福岡城趾説を主張している。当時、この場所には帝国陸軍歩兵第24連隊が駐屯していたが、中山教授は連隊の開放日に兵営内で古代の瓦を収集したりしていたという。

 つまり、ここに遺構があることは大正期からわかっていたことであり、終戦後も練兵場跡地に国体開催のために運動場がつくられ、国体終了後に球場に改造されたのが平和台野球場である。そもそもは江戸時代初頭に黒田長政がここに福岡城を建築した時点でもかなり破壊してしまったらしい。考古学者にしてみれば、度重なる破壊行為がようやく終わったのが87年という感覚なのかもしれない。

 福岡は今では、博多駅に降り立つと商業施設のスタッフから警備員に至るまで、皆がソフトバンクホークスのユニホームを着用しているホークス城下町だ。

 今となってはライオンズは“出て行った”球団かもしれないが、平和台野球場も球団にくっついて出て行ったわけではない。せめてもう少し、その存在が後世に引き継がれる程度の弔いをしてやってもよい気がする。
(文=伊藤歩/金融ジャーナリスト)

BusinessJournal編集部

Business Journal

企業・業界・経済・IT・社会・政治・マネー・ヘルスライフ・キャリア・エンタメなど、さまざまな情報を独自の切り口で発信するニュースサイト

Twitter: @biz_journal

Facebook: @biz.journal.cyzo

Instagram: @businessjournal3

ニュースサイト「Business Journal」

プロ野球本拠地球場“老後”の悲喜こもごも〜栄光の歴史を消された“遺跡跡地”平和台の謎のページです。ビジネスジャーナルは、社会、, の最新ニュースをビジネスパーソン向けにいち早くお届けします。ビジネスの本音に迫るならビジネスジャーナルへ!