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中村芳平「よくわかる外食戦争」

危機マック、創業者は天文学的利益獲得 繁栄と没落を招いた常識逸脱の規格外経営

文=中村芳平/外食ジャーナリスト

日本マクドナルドの設立時は米国が50%出資、日本側は藤田氏が10%、藤田商店が40%出資した。そして売上高の1%はロイヤルティーとして米マクドナルド本社と藤田商店に支払われる仕組みだった。藤田氏の抜け目がなかったのは、藤田商店でポテトの輸入権を獲得したことです。これは店舗数が増えていった時、巨額の利益につながりました」

 こうして藤田氏は71年に銀座三越の1階にマクドナルド第1号店を開店、日商100万円を超える大繁盛店とし、あっという間にハンバーガー文化を日本中に広げた。藤田氏を一躍有名にしたのが、日本マクドナルドの大成功をバックに72年、『ユダヤの商法 世界経済を動かす』(ベストセラーズ)を出版したことだ。これが104万部というミリオンセラーになり、藤田氏はベンチャー起業家のアイドルとしてまたたく間にスターダムにのし上がった。

●創業者の死

 日本マクドナルドは軌道に乗り、破竹の勢いで店舗を増やし、外食企業トップの座に就くが、藤田氏の泣き所は事業を譲る後継者に恵まれなかったことだ。藤田氏には長男の元氏(藤田商店社長)と次男の完氏(藤田商店副社長)がいた。

「一時期、藤田氏は次男の完氏を後継者にしようとマクドナルドに入れて育てようとしたが、完氏は人使いがうまくできなかった。また、後継者にするなら米本社に出向し、いろいろ学ぶべきだと言われたが、完氏は結局アメリカに行かなかった。藤田氏も息子への後継を断念せざるを得なかったのです」(王氏)

 藤田氏はこれを機に、家族や息子たちに資産を残すために、株式の上場に踏み切るが、それに先立つ99年~01年6月頃にかけて商業施設内の小型店舖、ドライブスルー店舗などの積極展開を行い、総店舗数を01年3月末で3619店舗に増やした。上場時の株価を上げるのが一つの目的だったといわれる。

 米本社は資産流出につながるので株式公開には反対だったが、これも藤田氏が押し切った。こうして日本マクドナルドは01年7月、東京証券取引所のJASDAQ(ジャスダック)へ上場した。初値は4700円。藤田氏と藤田商店の息子2人は1420万株を売却、611億円というケタ違いの創業者利益を得た。藤田氏は最初、東証1部に上場するつもりだったが、日本マクドナルドと藤田商店との関係(ポテトの輸入権、経営指導料の支払いなど)が不明朗であるということで、ジャスダックに指定されたという。

 日本マクドナルドが上場した01年は、米本社との30年契約が更新された年でもある。藤田氏はこの際、再び30年の長期契約を結んだ。契約更改では依然として藤田商店に経営指導料が入り、直営店・FC店の売上高の0.5%がロイヤルティーとして入る仕組みだった。

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23:30更新
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