マツダ「ロードスター」(「Wikipedia」より/Thesupermat)
折しも円安が進行し日本の株価は上がり、自動車メーカーは潤いを取り戻し、スポーツカーのようなある意味“不必要”なフィールドの面倒をみる余裕が出てきたのかもしれない。先月13日、トヨタ自動車とマツダが業務提携に関して共同記者発表を行い、両社のトップが「楽しいクルマをつくっていこう」と声を合わせた。
いずれにせよ、少なからずスポーツカーに注目が集まってくれば、自動車産業の“気分”もなんとなく上向き、華やぐもの。そのこと自体がスポーツカーというものの大切な存在理由なのだろう。
筆者のような自動車専門の物書きがスポーツカー話で盛り上がっていると、必ずと言っていいほどこういう話になる。
「これで、若者のクルマ離れを食い止めることができたらいいのですが……」
結論からいうと、若者のクルマ離れどころか、日本人のクルマ離れトレンドは、国内自動車メーカーが束になって「運転の楽しいスポーツカー」をつくり始めたとしても(そんなことはないだろうが)、鈍化こそすれ、そのベクトルを大きく変えることはできないだろう。
この場合のクルマ離れとは、「クルマを必要としなくなる」ということでは決してない。20世紀型もしくは欧米型のクルマに対する憧れや興味をなくす、という意味で、要するに根強いクルマ文化待望論からの脱却を意味する。ドライビングファンを中心とした極めてホビー的要素の強いクルマ信仰(主役はスポーツカー)からの、ひと足早い、“卒業”でもあるだろう。
そこで今回は、日本人のクルマ観を掘り下げて考察しつつ、クルマ離れやクルマ文化論について考え、未来の日本車のあるべき姿をあぶり出してみたい。
本当にクルマの運転は楽しいものなのだろうか
高性能スポーツカーやモータースポーツといったクルマ文化なるもののキーワードの根源には、いずれもドライビングファンが横たわっている。運転は楽しい。クルマ好きにとって、それは絶対的信仰的フレーズだ。筆者もそう思う。そう信じてこの仕事にいそしんでいるし、人生における最も大切な趣味にもなっている。
まずは、それを疑ってみることから始めてみたい。本当にクルマの運転は楽しいものなのだろうか。そのことを真面目に考えてみれば、ひょっとして若者たちがクルマへの興味を失いつつある本質的な理由がみえてくるかもしれない。