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浮世博史「日本人が知らなかった、ほんとうの日本史」

武田信玄の武勇伝、上杉謙信の美談は嘘だった?謙信、“利益のない”戦いをひたすら続けた謎

文=浮世博史/西大和学園中学・高等学校教諭

武田信玄の武勇伝、上杉謙信の美談は嘘だった?謙信、“利益のない”戦いをひたすら続けた謎の画像1上杉謙信像(「Wikipedia」より/M-sho-gun)
 上杉謙信――。

「好きな戦国大名は誰ですか?」という人気ランキングなどでは常にベスト10入りする、国民的ヒーローといっても過言ではありません。もちろん実在の人物ですが、今回はできるだけ「等身大の謙信」を紹介したいと思います。

 プロイセン王国の軍人、カール・フォン・クラウゼヴィッツが著した『戦争論』に次のような言葉があります。

「戦争の勝敗はその戦争目的を達成したか否かが問題であって、戦闘そのものの勝敗は関係ない」

 要するに、その戦いで目的が達成できれば戦いそのものは負けでもよいという意味ですが、この点は謙信のライバル、武田信玄がハッキリしていました。

 両者が戦った有名な川中島の戦い。信玄が謙信に負けて引き揚げた戦いもあるのですが、それは関東地方に攻め込んだ上杉軍を引き揚げさせるために川中島に攻め込み、同盟国であった北条氏康を助けるという目的だったので、戦いそのものは「負け」であったとしても、信玄にとっては「勝ち」であったことになるわけです。

 江戸時代に流行した「甲州軍学」は、クラウゼヴィッツ型の戦争論でした。

 甲州軍学は幕府の旗本、御家人、譜代大名の間で流行しましたが、それもそのはず、徳川家康の家臣団には三河以来の家臣以外にも、旧武田家配下の武士たちが多く、それ以外の家来たちと張り合う意味もあって、「おれたちのご先祖さまは家康公も一目置く信玄公の家臣だったのだ」というのを自慢していたからです。

 興味深いことに、この甲州軍学に対して越後軍学というのも江戸時代に流行します。こちらは謙信の家臣、宇佐美定行の子孫を自負する宇佐美定祐が始めました。彼は紀州藩の家臣です。8代将軍に紀州藩の徳川吉宗が選ばれると、紀州藩で始まった越後軍学は甲州軍学と対抗して広がるようになります。有名な「川中島合戦図屏風」が和歌山にある理由が、ここにあります。

リスペクト合戦

 ここから両派による、信玄と謙信のリスペクト合戦が始まります。

 甲州軍学派は、信玄だけでなく謙信も名将として描きます。謙信がとても強いほうが、信玄の値打ちも上がるためです。逆の理由で越後軍学派も、謙信だけでなく信玄も名将として描きます。

 こうしてお互いに相手の「すごさ」と「強さ」を強調していくようになり、現在に伝わる「信玄イメージ」と「謙信イメージ」が完成していきました。信玄・謙信の両ファンには申し訳ないところですが、両者の戦いに関する数多くの逸話は、虚構ではないですが、かなり誇張して描かれています。実際、2人の合戦史料の多くは江戸時代、しかも吉宗時代である18世紀に記されたものが多いのです。

 もちろん当時の史料も残っており、山科大納言言継の『言継卿記』には川中島の戦いがしっかりと描かれ、「謙信は自ら手を砕いていた」と記されているので、謙信が川中島の戦いで直接指揮をとっていたことは想像できます。ただ、残念ながら、謙信と信玄の一騎打ちは、この話を誇張した宇佐美定祐の「創作」といえます。

 かといって、「謙信は、実はすごくなかった」「確かに、あれだけ戦って勝ったはずなのに、領土が増えていないのはおかしい」と謙信を侮ってはいけません。

 江戸時代のフィルターで歪められた戦国武将像は多いですが、そのフィルターでかえって本当の「すごさ」「面白み」が消えてしまっているケースも多いのです。

謙信の本当のすごさ

 例えば、謙信の領土が増えていない理由として、「義の人なので、私益ではなく義で動く」「頼まれたら、なんの得にもならなくても兵を率いて戦う」という伝説が伝えられていますが、そうした伝説をわざわざ持ち出さなくとも、謙信のすごさは十分に説明できます。

 独歴史学者ハンス=ウルリヒ・ヴェーラーは、「社会帝国主義」という考え方を提唱しています。これは一言でいうと、「国内のさまざまな分裂、対立を解消して一つにまとめるために対外戦争を利用する」という考え方です。

「共通の敵」ができると、組織は団結できます。越後国は、山沿いは盆地も多くそれぞれの村が独立し、地元の有力者が多数存在していました。それらを一つにまとめるのは簡単なことではありませんが、外に共通の敵がいれば国内がまとまりやすくなります。さらに村側にしてみれば、誰か強い人にまとめてもらいたい。越後の場合、その強い人が謙信だったのです。

 敵をつくって内部の対立を解消していくため、謙信は戦い続けました。場合によっては強引な理由をつけてでも。家臣たちもついていきました。そうしなければ、細かい利害対立がお互いにあって、まとまらなくなるからです。

 それが証拠に一時期、謙信がしょっちゅう対立する地方有力者に腹を立て、ストライキや引退を宣言したことがあります。これには家臣・豪族たちは参りました。「共通の敵」と戦うには「共通の盟主」が必要です。謙信なくては国内はまとまらないことがわかっていたのです。みんな謙信に誓紙を差し出し、「申し訳ありませんでした」と頭を下げるハメになりました。

 関東に攻め入り信州に乗り込み、一見なんの利益にもならないのに謙信に率いられながら、越後の細かな利害対立を乗り越えて(忘れて)団結していくということが進行してきました。

 こうして、領土など増えなくても戦によってそれ以上の利益と団結を国内にもたらし、大車輪で活躍していた謙信は突然、倒れました。卒中であったといわれています。織田信長と戦うために出陣する前日だったとも、関東地方に遠征する前日だったともいわれています。

 そして、なんと謙信が死んだその日に、後継者争いである「御館の乱」が起こりました。共通の敵をつくって団結していた国の盟主が消えた瞬間、分裂が始まる。やはり越後は謙信がとっていた方法でなければ、まとめられなかったのでしょう。

 以下は謙信の言葉です。

「とにかく戦うのだ。その後どうなるかは問題ではない。目の前の戦い、一つ一つに勝っていくことが重要なのだ」
(文=浮世博史/西大和学園中学・高等学校教諭)

 

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