石田三成像(「Wikipedia」より/宇治主水)
救い出された石田三成の子
天下分け目の関ヶ原合戦は、東軍(徳川方)の勝利に終わり、西軍の中心的大名は処刑されてしまい、その血統も途絶えた――。このように思い込んでいる人も多いのではないか。
確かに肥前国宇土の小西行長は、当人のみならず一人息子も処刑され、対馬の宗氏に嫁いだ娘・妙(洗礼名マリア)も婚家を追われ、数年後に長崎の地で寂しく歿し、その血統は絶えている。だが、すべてがそうした命運をたどったのかといえば、そうではない。
意外なところで、西軍大名の血筋が脈々と受け継がれているケースが少なくないのだ。 実質的な西軍リーダーは、佐和山城主の石田三成。敗れたあとに三成は捕縛され、京都の六条河原で首を刎ねられた。ただ、三成の嫡男・重家は、仏門に入ることで助命され、名を宗享と改めて京都妙心寺・寿聖院の住持となっている。ただ、僧侶の身なので妻帯は許されず、子孫を残せぬまま貞享3(1686)年に没した。
しかし、それで三成の血脈が途絶えたわけではなかった。意外にも都から遠く離れた東北は津軽の地に、その血筋が続いているのである。しかもなんと、藩主津軽氏の嫡流になっているのだ。津軽藩は関ヶ原合戦後、三成の遺児を密かに領内にかくまっている。藩祖津軽為信が、三成に多大な恩義があったからだ。
大名になった石田三成の子孫
天正18(1590)年、為信は豊臣秀吉に成敗されそうになったことがある。この時、三成の尽力でその難を免れたのだ。さらに三成は、為信の嫡男信建の烏帽子親も引き受けてくれた。そういった恩義から、為信は三成の子を救ったのであろう。
為信は、関ヶ原合戦で西軍が敗北すると、三成の次男重成とその妹(姉とする説もあり)辰姫(曽野とも)を大坂城から密かに連れ出した。辰姫については、合戦の褒美として徳川家から賜った上野国勢多郡大館(現群馬県太田市)で内々に養育した。やがて彼女が成人すると、為信は次男の側室とした。
この次男こそ、二代藩主となる信枚であった。元和5(1619)年、辰姫は信枚の子・信義を産むが、信枚の正室・満天姫(家康の養女)に男児がなかったことから、信枚の歿した寛永8(1631)年、信義が三代藩主に就任する。すなわち、三成の孫が津軽藩主になったわけだ。ただ、藩主に就いた我が子の晴れ姿を、辰姫は拝むことができなった。信義が5歳になったばかりの元和9年、彼女は32歳の若さで病没してしまっていたからだ。