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河合敦「学校で教わらなかった日本史!」

関ヶ原合戦で敗れた石田三成、処刑され血脈断絶はウソだった!大名と子孫、各地で延命

文=河合敦/早稲田大学教育学部講師、文教大学付属中学校・高等学校教諭
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 いっぽう三成の次男重成は、名を杉山源吾と改め、深味郷(北津軽郡板柳町)に10年近く潜んだ後、先述の大館に移された。その後、彼がどのような生涯を送ったかは不明だが、どうやら寛永18年に没したらしい。ただ、重成の子・吉成は、津軽藩に召し出されて1300石を賜り、当人のみならず子々孫々に至るまで重役として藩政にたずさわることになった。このように、三成の血統は、絶えることなく北辺の津軽で相承されていたのである。

島に流された五大老の末裔

 宇喜多秀家も、西軍の中心的な大名だった。秀家は豊臣秀吉に寵愛され、備前岡山に大封(57万4000石)を賜り、若くして五大老に任じられた。そんな秀家は、関ヶ原合戦に敗れた後、小西行長や三成のように捕まらず、運良く薩摩へ落ちのび、島津義弘の保護を受けることに成功した。だが、やがて秀家生存の噂が広まっていった。困り果てた島津氏は慶長8(1603)年、加賀の前田利長と相談の上、ついに事実を幕府に告げて秀家の助命を願い出たのである。

 前田氏が協力したのは、秀家の妻・豪姫が前田利家(利長の父)の娘だったからだ。結果、秀家は死一等を減じられ八丈島に流されることに決まった。島流しに際して男児2人は同行したが、豪姫を伴うことは許されなかった。豪姫は寛永11年、61歳の生涯を閉じたが、彼女の遺言により、八丈島の秀家のもとには前田家から隔年で金銭や米など、生活必需品が届けられることになった。

 いっぽう秀家は、八丈島で代官の娘と結婚、多くの子孫を残して84歳で天寿を全うした。明暦元(1655)年のことだというから、なんと、徳川4代将軍家綱の時代である。さらに驚くべきことに、前田家の仕送りは秀家の死後も継続され、明治維新まで続いたのだ。

 宇喜多家が正式に赦免されるのは明治2(1869)年のこと。一族は繁栄して多家に分化しており、本家以外は浮田と名乗るようになっていた。このうち7家70人以上が、翌年に東京へ出てくる。この時、前田家では彼らのために屋敷を整え、1000両を与えて生活の面倒を見たと伝えられる。明治政府も彼らの生計が立つよう明治6年、東京・板橋におよそ2万坪の土地を下賜した。

 以上述べてきたように、関ヶ原の合戦で敗れた西軍大名たちの血筋は、脈々と受け継がれてきたのである。
(文=河合敦/早稲田大学教育学部講師、文教大学付属中学校・高等学校教諭)

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