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三池純正「歴史はこんなに面白い!」

工事現場で、人間の頭蓋骨と巨大な“馬”を発掘!なんとあの大物戦国武将だった?

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首の主は豊臣秀頼?


 果たして、豊臣時代の大坂城内にそんな特徴をもった人物はいたのであろうか。

 実は、それに該当すると思われる人物がたったひとりだけいる。それは、豊臣秀吉の嫡子で大坂城主の豊臣秀頼である。秀頼は当時の記録から、身長が180センチメートル近くもある当時としてはかなりの大男で、太って体格もよかったことがわかっている。しかも、秀頼は「太平楽」という名の当時としてはかなりの大型の名馬に乗っていたこともわかっている。

 そして、秀頼が大阪夏の陣で大坂城内にて自刃したときの年齢は23歳であった。城内山里丸の朱三櫓の中で母淀殿や30人ともいわれる側近の武士や女中たちと共に果て、しかも大坂城は炎上し、遺体も焼けてしまったとされている。焼け跡からは多くの焼死体が発見されていたが、どれも性別も判別できないほど損傷がひどかったという。

 本能寺の変でも、織田信長の遺体が発見されなかったように、大坂城でも秀頼と明確に確定できる遺体は見つからなかったのである。『大坂御陣覚書』にも「建物は残らず焼失し、秀頼公の御死骸と思われるものは判明できない」とある。

 ただ、同じく大坂の陣について記した『難波軍実録』には、「その焼け跡にはいくつかの焼死体があったが、そこに首のない遺体があり、その傍らに『吉光』の銘の入った刀が置いてあった」と記されている。

 この「吉光」の名刀は秀吉がかつて秀頼に贈ったものであることから、その首のない遺体は秀頼と断定されたというのである。これが事実なら、秀頼と断定された焼死体には首がなかったことになる。当時、敵に大将の首を取られることは恥辱とされたため、秀頼自刃後、豊臣方の何者かがその首を持ち去ってどこかに隠した可能性はある。そう考えると、旧城内で発見され丁寧に埋葬された首は、秀頼のものであった可能性は否定できない。

 ただ、秀頼の首を現場から持ち出したのはいったい誰なのか、なぜそれを埋めた場所が二の丸京橋口前の郭であったのか、さらには合戦の混乱の最中、馬まで埋める余裕はあったのか、などまだまだ解明しなければならない謎は残っている。

 だが、この頭蓋骨が秀頼の首と考えられるにはそれなりの状況証拠があったといえる。もしできることなら、現代の最新の技術をもって、その頭蓋骨から顔を復元してみてはどうだろう。そうすれば、その顔の主から人物が特定できることになるかもしれない。

 ちなみにこの頭蓋骨は「秀頼の首」と判断され、その後、豊臣家ゆかりの京都清涼寺に首塚が築かれ、今はそこに丁寧に埋葬されているという。
(文=三池純正/歴史研究家)

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