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豊臣秀吉像(「Wikipedia」より/Tabularius)
本能寺を包囲した兵は3000ほどであったともいわれていますが、本能寺は実は要塞化されていましたから、実際の襲撃には、もっと隠密裏の行動や事前に何らかの「準備」がなければ、そんなにうまく本能寺には侵入できなかったはずです。
実は信長が殺害されたこの日、町中で大軍が動いていても人々にとっては不自然さがなかったのです。御茶会と軍事演習が予定され、四国出兵も間近に迫り、さらに中国遠征に信長が出陣する予定もありました。そのため、夜に大軍が移動していても京都の人たちは違和感を覚えなかった理由が、いくつも重なっていました。
ドラマや小説のように「大軍で包囲した」というより、堂々と門をくぐってそこから本能寺の中へ入ることができた可能性も高いのです。本能寺の変にせよ、はるか後年の赤穂浪士の討ち入りにせよ、小説や演劇、テレビドラマは演出としてやや劇的に描かれており、実際とはずいぶんと違ったものなのです。
光秀の本当の失敗
ともあれ、明智光秀は信長とその嫡男信忠を、本能寺および二条御所(後の二条城)で討ち果たすことに成功しました。一般的によく説明される「光秀の失敗」は以下のとおりです。
・信長と信忠の「首」を確保できなかった。
・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が想定していた以上に速く引き返してきた(中国大返し)。
・徳川家康を討ち取ることができなかった。
・筒井順慶と細川藤孝が協力してくれなかった。
・摂津の大名(中川・高山・織部など)を味方にできなかった。
しかし、この光秀の失敗にはいくつかの謎があります。まず、信長と信忠の首を確保できなかったという点ですが、首がなければ「信長と信忠を討ち取った」と宣伝できません。死体が見つからなかったとしても、「偽首」でもよかったはずです。なぜ首を世間に示さなかったのでしょうか。
さまざまな事情があったにせよ、光秀はもっと情報操作に心を砕くべきでした。畿内の有力者たちが光秀に呼応しなかった理由の一つは、「信長の死」を十分に確認できなかったため「様子見」をしていたという面が挙げられます。