上杉謙信像(「Wikipedia」より/M-sho-gun)
「一字を賜る」ということは、この上ない名誉とされており、上下間の結びつきをより強固なものにする効果があった。
この偏諱についてみていくと、一味違った歴史の面白さを発見することができる。一字を授ける、および賜るという行為は、当人同士のやり取りのため、原則として同時代に生きた者同士にしか発生しない。それを踏まえると、ただの系図とは異なる人物相関図を描くことができる。
例えば戦国時代後期、陸奥の伊達家は家格向上を図る意味もあり、足利将軍家から一字を賜ることに執心していた。10代将軍足利義稙の時代に当主となったのは伊達稙宗で、稙宗の嫡男である伊達晴宗は、12代将軍足利義晴の偏諱を受けている。
さらに、伊達晴宗の嫡男は13代将軍足利義輝の偏諱を受けて、伊達輝宗と名乗った。そして、伊達輝宗の嫡男が「独眼竜」で有名な伊達政宗だが、この頃には足利将軍の権威が失墜し、偏諱を受けるメリットは感じられなくなっていた。
同様に、将軍家とのつながりを重んじた家はほかにもある。武田信玄もその1人であり、実名の「晴信」というのは、前述の足利義晴の偏諱を受けたものだ。
こういった事実を並べていくと、「どの大名とどの大名が世代的に近いのか」が一目瞭然だ。
例えば、前述した伊達晴宗は1519年生まれで、武田信玄は1521年生まれと、ほぼ同年代である。ほかにも、幕府ナンバー2の要職である管領を世襲していた細川家の当主・晴元が1514年生まれだ。細川晴元の父は、11代将軍足利義澄の偏諱を受けて「澄元」を名乗り、晴元の息子は15代将軍足利義昭の偏諱を受けて「昭元」を名乗っている。
偏諱でわかる人間関係
戦国時代のライバル物語は、ドラマなどで同世代のように描かれていても実は違うということが珍しくない。それは、名前から判断できる場合もある。
戦国時代屈指のライバルといえば、武田信玄と上杉謙信だが、足利将軍家への高い忠誠心を持ち続けた上杉謙信は、足利義輝から偏諱を受けて「輝虎」を名乗っていた。1530年生まれの上杉謙信は武田信玄より9歳下で、1509年生まれの長尾晴景が兄である。