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三池純正「歴史はこんなに面白い!」

徳川家康、豊臣家による暗殺計画が存在した?

文=三池純正/歴史研究家
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放火と窃盗が相次いだ駿府城

 家康の業績を中心に記されている記録書『当代記』を見ると、駿府城は9回の放火に遭ったことが記されている。

 完成間近だった天守閣を焼いた火事は、慶長13(1608)年12月22日、丑の刻(午前1~3時)に発生した。大奥の局の物置で使用していた手燭の火が襖や壁紙に引火、火は本丸全体に広がり、御殿や天守を焼き尽くしたと伝えられる。

 この時、家康は早めの床についていたが、そばで寝ずの番を務めていた竹腰小伝次らに抱えられてなんとか脱出し、庭で火を避けたという。家康は城の後門から城外に脱出したため、大手門は閉じられ、城から逃げ遅れて焼け死ぬ者も多かったようだ。事実、「こちゃ」という女官は、門に殺到した人々に踏みつぶされて命を失っている。

 また、その年は10月にも台所の梁の上から出火し、二の丸まで飛び火して家屋や長蔵など50メートルほどが焼けてしまった。

 さらに、翌年の6月には本丸に火をつけられ、下手人とされた下女2人が火あぶりにされ、女官2人が遠島に処せられている。

 放火のほかに、金品や金目の茶器が盗まれる事件もその年の3月に起きており、やはり女官が責めを負われて殺害されている。こうした窃盗事件は、その前後にもあったという。

 盗みの目的は単に金品だけだったのか、あるいは機密文書のようなものまで含まれていたのかはわからない。ただ、犯人とされた人物がある程度の身分の女性であったことは確かである。

 身分のある女性が、単なる金品目当てで窃盗などをしただろうか。その行動には、不自然な点が多い。

 いずれにしても、家康の居城であった駿府城では、この慶長14(1609)年当時、放火や窃盗事件が頻繁に発生していたことは間違いない。

背景には家康暗殺計画があった?

 当時の記録には、誰がなんの目的で放火や窃盗をしたのか、明確には記されていない。ただ、何者かが執拗に家康のもとに女間者や忍びの者を送り込み、放火や盗みを行わせていた可能性は高い。特に放火は、家康の命を狙ったものと考えられる。

 何度も城に間者を送り込み、家康の命を狙うだけの動機と組織力を持った存在となると、一番に浮かんでくるのは、やはり豊臣家だ。

 また、家康はこの頃、キリシタンに対する弾圧を強化しているが、当時のキリシタンの数は数十万人といわれ、豊臣家に仕える女官や家康の侍女にもキリシタンが少なくなかった。

 そうした背景から、キリシタンが女官となって駿府城へ潜入し、放火を繰り返して家康の命を狙ったという可能性も否定はできない。

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11:30更新
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