榊原康政(「Wikipedia」より/GooGooDoll2)
中山道が東西を結ぶ重要なルートだったことは、特に江戸前期の北関東を見ると理解が早い。
徳川家康が関東に移封(国替え)されて最初に着手したのは、関東各地に信頼する武将たちを配することだった。彼らは、任された土地を治める領主であり、江戸に本拠を置く徳川家の「藩屏」(防護のための垣根)としての武力(特に防衛能力)も期待された。
上野国(現在の群馬県)南部に位置する館林を最初に任されたのは、「徳川四天王」の1人として名高い榊原康政だった。
康政は家康の側近としても働いており、武人として突出した評価はないものの、家康から厚い信頼を寄せられた。文武両道で「主君一筋」「徳川家第一」という、家康にとっては最も頼れる忠臣である。
織田信長と家康が連合して、朝倉義景・浅井長政軍と激突した姉川の戦いで、康政は勝利を引き寄せる活躍を見せ、小牧・長久手の戦いでは、敵の大将である豊臣秀吉を罵倒しつつ、自陣営の大義名分を訴えた檄文を発して、秀吉を激怒させた。
それは、秀吉が「康政を捕らえたら、褒美は望み通り!」という破格の条件を用意したといわれるほどで、和平後に秀吉は康政の忠義心と文才を褒めたたえている。
そんな康政を館林に配したのは、家康が当地を「北方・西方への備え」と認識したからだ。館林は江戸から北上した場所にあり、当時は東京湾に注いでいた利根川を使えば、往来も便利だった。
館林は、関東の支配者だった古河公方の本拠地にも近い。加えて、陸路でも水路でも西に進めば、同じく要衝とされていた厩橋(現在の前橋)があり、さらに西に進めば中山道に出る。
館林から上野国を北西に進むと、山間を越えて越後国(現在の新潟県)や会津地方(現在の福島県)に到達する。北東に進めば、下野国(現在の栃木県)の日光を越えて、陸奥(現在の東北地方)との国境だった白河に着く。
つまり、館林は北関東きっての交通結節点だったわけだ。裏を返せば、江戸を守る最終防衛ラインということである。