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武田鏡村「本当はそうだったのか 歴史の真実」

織田信長は「神を冒涜する悪魔」だった?キリスト教を利用し兵器生産

文=武田鏡村/作家、日本歴史宗教研究所所長
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信長対本願寺の戦いのはじまり

 信長としては、この本願寺の広大な伽藍を含めた寺内町の生産・流通の機構をそのまま残すかたちで支配したかった。しかし、顕如および本願寺は信長の要求を拒否し、戦う姿勢を鮮明にした。しかも、全国の門徒に対して、一斉に挙兵し、本願寺に兵員と食糧を集めることを命令したのである。

 かくして、信長と本願寺は10年にもわたって戦いを続けることになった。信長がこれほど長期的に戦ったのは、異例である。信長は、浅井長政や朝倉義景、足利義昭、武田信玄らとの戦いの合間を縫って、本願寺を攻略しようとした。しかし、堅牢な本願寺は紀伊の雑賀衆(さいかしゅう)の鉄砲隊を後ろ盾にして、何度も信長軍を撃退した。

 その間に、伊勢長島や越前で挙兵した本願寺門徒との戦いに追われた信長は、兵力を集中して本願寺を攻撃する力はなかった。それが、戦いが長期化したひとつの要因でもある。

 また、信長が本願寺攻略に手こずったのは、信長に敵対する勢力が本願寺と連携したことも理由である。前述の長政や義景はもちろんのこと、信玄、上杉謙信、さらに毛利輝元までが本願寺と同盟を結び、対信長戦線を構築した。その中心となったのが、本願寺である。

 武将たちは、本願寺と手を結ぶことで、信長軍の兵力の分散化を図り、さらには自国内の本願寺勢力にも協力を求めることができる。そのため、信長は、個別に武将たちと戦いながら、本願寺と対決しなければならなかった。

 最初に本願寺が決起したとき、信長はさほど脅威になるとは思っていなかっただろう。しかし、それはまったくの思い違いだった。結果的には、本願寺を敵に回したことにより、信長が描いていた天下統一の構想は頓挫したといってもいい。

 力では攻略できないと見た信長は、天皇と朝廷に働きかけて、本願寺との講和を模索する。とにかく、本願寺が石山から退去すれば、本願寺および顕如の安全を保証する。さらに、本願寺が支配していた地域を返還するというもので、信長にしては珍しい妥協案を提議している。信長にとって、本願寺の位置は、それほど戦略的に重要な意味があったのである。

 それでも本願寺の対決姿勢は崩れなかったが、毛利水軍による食糧の補給が途絶えると、ようやく朝廷の調停に従って本願寺は石山から退去、紀伊の鷺森(さぎのもり)に移転した。

 しかし、本願寺を接収した信長軍の過失で、本願寺と寺内町は焼亡してしまう。これに激怒した信長は、本願寺攻略の責任者となる佐久間信盛を追放した。

 信長が10年もかけて本願寺と戦ったのは、寺内にある生産と流通の機構をそのまま受け継ぎ、戦略上の拠点にしたかったからである。その構想は、秀吉に受け継がれ、のちにその地に大坂城が造営されることになる。