ビジネスパーソン向け人気連載|ビジネスジャーナル/Business Journal
これらを鑑みるに、上田城には、金箔瓦で屋根を葺かれた豪華絢爛な建物があったと考えるのが自然だが、そんなものが質素な上田城にあったとはとても思えない。
しかし、「質素な上田城」というのは、あくまでも現在の姿である。さらに、前述したように、今の上田城は仙石氏が築き直したものだ。真田氏の時代、上田城は豪華絢爛な姿を誇っていた、という可能性もあるだろう。
ただし、後から入った領主が前の領主の城よりも劣るような城を築くというのは考えにくい。城は領主のシンボルであり、領民に対してその力を見せつけるものだからだ。
前の領主よりみすぼらしい城を築いたら、領民たちはそれだけでその領主の力を疑うに違いない。はたして、仙石氏がそんなことをするだろうか。
謎に満ちた「幻の上田城」
関ヶ原の戦い後に破壊された上田城を描いた古図を見ると、「ウメホリ」「畑」などと記されている。真田氏の時代の上田城の堀はすべて埋められ、城跡は破壊されたままの状態で、原っぱか畑になっていたようだ。
しかし、仙石氏が上田に入るにあたって、幕府は仙石氏に上田城再築の許可を出した。そこで、仙石氏は埋められていた堀を掘り返し、石垣を築く再築工事を始めた。
仙石氏が上田に入った元和8(1622)年は、江戸幕府が出した法令「武家諸法度」により、築城が大きく制限されていた。きらびやかな城や、立派な城をつくるのは、もってのほかだ。
さらに、築城の陣頭指揮に当たっていた城主の忠政は、工事の途中で亡くなっている。そんな事情が重なり、上田城は質素な姿で築かれたのである。
そのため、上田城は本丸部分を除いて未完成だったといわれる。本丸には天守閣などはなく、それに代わる櫓も二層程度のものが七基あっただけだ。本丸に門と櫓を配しただけで、二の丸や三の丸には櫓はおろか塀もなかった。まさに、簡素な城だったのだ。
そんな未完成な城に、金箔瓦など使われるはずがない。ましてや、武家諸法度で築城を厳しく制限している江戸幕府が、豪華な瓦の使用を認めるはずはないだろう。
そう考えると、この金箔瓦は仙石氏が再築した上田城ではなく、その前に存在していた真田氏による「幻の上田城」のものであると考えられる。
さらに、金箔瓦の出土地点をよく調べてみると、本丸西の堀に集中している。真田氏の時代の上田城が壊された時、その壊された建物は、瓦と共に本丸の堀に捨てられてしまったのではないだろうか。