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外川淳「日本史の真相」

徳川家康は系図を捏造していた?名家乗っ取りを画策、無関係の人物を「直系」に…

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 一説によると、直親の死後、養祖父にあたる井伊直盛の娘が「直虎」と名乗り、女性でありながら井伊家の当主となったそうだ。そのため、直政は義母にあたる直虎に育てられたという。

 戦国時代では、正当な後継者の男子が成長するまで、母親または一族の女性が領主の権限を代行する「女城主」「女地頭」が存在した。江戸時代に成立した井伊家の正史では、直虎の存在は無視されていたが、近年では直虎は戦国の女城主の一例として注目を集めている。

 家康は、15歳の直政が自身に忠実に仕える様子を見て、信頼感を抱いた。そして、出自をたずねたところ、名家・井伊家の嫡流(直系の血筋)であることを知る。

 家康も、幼い頃に織田氏から今川氏へ、人質としてたらい回しにされた経験があるため、似たような境遇の直政に対して共感を抱く。そして、直政が文武兼備の戦国武将に成長するように、自身の手で鍛え上げた。

 直政は家康の期待に応え、関ヶ原の戦いでは勝利の立役者の1人となり、彦根藩18万石の大名に累進する。

直政は井伊家の直系ではなかった?


 直虎と直政の関係を整理すると、滅亡の危機に瀕していた井伊家を救うため、一族の女性が「直虎」と名乗り、幼い直政を育てた――ということになる。没落した名家が復活するという感動話ではあるのだが、直政の生い立ちは家康の苦難の少年時代と酷似しており、演出や創作のにおいもする。

 家康は、側近のなかで優秀だった少年に対して井伊の姓を与え、名家を乗っ取ろうと画策したという説もある。井伊氏が幕府に提出した公式な系図には、直政は井伊氏の直系と記録されている。

 しかし、系図の操作は簡単にできることであり、直政は井伊家の傍系あるいは無関係だったという類推もできる。

 直虎は、天正10(1582)年に没するまで、成長した直政に家督を譲渡することはなかった。これを、井伊家を守るための直虎の抵抗だったと考えると、隠された歴史の真実を読み解くことができるかもしれない。
(文=外川淳/歴史アナリスト)

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