ヤマトホールディングスおよびヤマト運輸本社(「Wikipedia」より/Lombroso)
ヤマトホールディングス創業家出身の小倉康嗣氏が、米国ヤマト運輸とメキシコヤマト運輸の社長を8月1日付で退任した。ヤマトは小倉氏の処遇にようやく決着をつけたことになる。
ヤマトの宅配便事業の創始者は、創業家2代目である故・小倉昌男氏。「狷介(けんかい)」(人の意見を聞かず、妥協しない)と自ら評した頑なな性格で知られ、誰もやろうとしなかった宅配便を生み出した。
「1(昌男氏)対5000(役員・従業員)」の四面楚歌の中、1976年1月20日、宅配便事業は見切り発車した。トラック運送から宅配便へ業態転換するため、売り上げの1割以上を占めた三越と決別。松下電器産業(現パナソニック)など大口荷主との仕事からも撤退した。
最大の難関は、許認可権を握る役所の壁。孤立無援のなか旧運輸省、旧郵政省に闘いを挑み、屈服させた。このことから昌男氏の名は規制緩和のシンボルとなった。
だが、社内の反応は冷ややかだった。
「そんなに敵ばかりつくっても仕方がないでしょう。いい加減にしたらどうですか」
昌男氏の次の社長となる都築幹彦氏は、しばしば苦言を呈した。
役員たちは昌男氏を敬う振りをして近寄らなかったが、内心では昌男氏のことが嫌いだった。遠ざけられた昌男氏は晩年、日本を離れ米国に移住。05年に亡くなった。享年80歳。
お家騒動
昌男氏の死去後、ヤマトではお家騒動が起きた。昌男氏の長男、康嗣氏の処遇をめぐり派閥争いが火を噴いたのだ。
康嗣氏は慶應義塾大学法学部を卒業後、大日本印刷を経て89年にヤマト運輸に入社。99年、39歳のときに取締役に就いた。昌男氏が生きている間は、後継者とは見なされていなかった。しかし、昌男氏の存在はあまりにも大きかったために、幹部たちは康嗣氏をないがしろにできない。その気配りが、康嗣氏の処遇をめぐって派閥抗争を引き起こす原因になった。
05年11月に発足した持ち株会社ヤマトホールディングスの社長の座をめぐって、社内は大混乱に陥った。大番頭の有富慶二氏が暫定的に持ち株会社の会長兼社長に就任して、ようやく収拾した。その半年後の06年6月、康嗣氏は中核事業会社のヤマト運輸社長に就いたが、女性スキャンダルの怪文書が乱れ飛んだ。
派閥抗争が決着するのは07年3月。康嗣氏はヤマト運輸の社長を外れた。10月に民営化される日本郵政公社(現・日本郵政)との熾烈な競争に耐えるためには、経営者として力不足とされたためだ。