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東芝、なぜ「優等生」社員はこぞって幼稚な不正に走った?増幅した「悪い癖」

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 「衆議一決」を国語辞典で引くと、その意味は「おおぜいの議論、相談の結果、意見が一致し結論が出ること」とあり、 用例として「会議で衆議一決、進むべき方向が定まった」とある。議論と相談を同列で語ることや「進むべき方向は定まった」という主語不在の表現が、まさに曖昧に「私」が「我々」に転換することを示してはいないか。

 日本でいう全会一致は、欧米のように「意見の対立がある状態が、自然な状態である」という認識を前提に置いていない。「私」が「我々」に転じる「斉一性の原理」を考えるには当たっては、外部から「自発的に見える」ことに、その糸口があるのではないか。

 そして「私」を「我々」へと変容させる「力」とは、流れに抗えないその「場」の雰囲気、つまり「空気」である。この「空気」とは、日本人が多用し意思決定プロセスにおいて最も重要視される言葉かもしれない。東芝不正会計問題で注目された「チャレンジ」が蔓延した要因は、まさにこの「空気」であろう。

「我々、東芝社員」

 この「場」「空気」を突き詰めると、「間主観性(intersubjectivity)」に対する個人の捉え方の問題に行きつく。間主観性とは、簡単にいえば複数の個の主観の共同化・相互主体性を意味する。過度に「相互協調的自己構造」が優位な日本人にとって、この間主観性は裏庭のように、部外者にはその存在やルールが捉えられない「個別化ができない私的な間主観性」として存在する。そしてそれが根源的な自発性、つまり一人称性を持つかのように認識される【註2】。

 日本人は、これを「場」とか「空気」と表現するのである。そして、この「個別化ができない私的な間主観性」に従うことにまるで抵抗がない。それを「思いの共有化」と表現して正の意味で理解し、あたかも自分と同列の主体であるかのようにその自発性を認める傾向が強い。この「個別化ができない私的な間主観性」が根源的自発性を形成する過程で、個人が流れに反論できない状況が訪れた時が、「私」から「我々」への不可逆な転換点である。

 この「私」から「我々」へのプロセスに慣れ親しんでいる日本人は、「我々」という言葉を多用する。まさに、「我々、東芝社員」である。ここに、日本人の悪い癖といわれる

「黙る=面倒だ」
「考えない=考えたくない」
「目をつむる=わかったと思う、思いこむ」

 という行為が蔓延する背景にも、この「私」から「我々」への不可逆の転換があるのではないか。また、日本人特有といわれる「本音(私)」と「建前(我々)」が存在する理由でもある。

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