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江川紹子の「事件ウオッチ」第51回

疑わしきは検察側の主張通りに?【栃木女児殺害裁判】で垣間見えた、裁判員裁判の限界

文=江川紹子/ジャーナリスト
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危うい「市民感覚」

 取り調べの可視化は、取り調べの経過を正確に記録し、後から検証可能な状態にすることに意味がある。特に大切なのは、否認していた被疑者が自白に転じるプロセス。本件のように、否認から自白に転じた状況が記録されていないのでは、とても「可視化」されているとはいえない。

 同じ宇都宮地裁で生まれた冤罪「足利事件」に巻き込まれた菅家利和さんは、逮捕前の「任意」の取り調べで「自白」に追い込まれた。逮捕後の取り調べでは、起訴された事件のみならず、他の2事件についても「自白」している。

 自白の一部は録音が残っているが、その記録からは、取り調べを担当した捜査官が威圧的な態度をとっているようには感じられない。それ以前に、菅家さんは心理的に捜査側に完全に服従し迎合的になっていたので、威嚇せずとも捜査官が望むような供述をする心理状態になっていた。そのため、一部の録音だけから判断すると、穏やかで適切な取り調べで任意に3件の殺害事件を自白をしたように受け取られてしまうのだ。

 このような事例を見ても、取り調べの一部の映像だけで、自白に信用性があると判断するのは、とても危ういことがわかる。

 現在、参議院で審議中の刑事訴訟法改正案では、裁判員対象事件は身柄拘束中の取り調べをすべて録音・録画することにしている。しかし、任意捜査の段階では、そうした義務づけがない。これでは逮捕前の取り調べを検証する術がなく、足利事件のような冤罪の再発を防げない。

 やはり録音・録画は、逮捕前の任意調べの段階から全過程において行うべきだろう。そうでない場合、裁判所は一部映像から自白の任意性や信用性を肯定することに対して、極めて慎重でなければならない。裁判長は、部分的な映像記録で判断することの危うさを、過去の教訓とともに、しっかりと裁判員たちに伝えるべきだ。今回の栃木女児殺害事件の審理の際、それがきちんとなされたのだろうか。大いに疑問だ。

 第2に、取り調べ室というおよそ市民生活と隔絶した特異な環境に置かれた人の言動を、「市民感覚」でどこまで判断できるのだろうか、という問題がある。

 判決は、被告人の捜査段階での供述態度は「殺人にまったく関与していない者があらぬ疑いをかけられたとしては極めて不自然」とか、「処罰の重さに対する恐れから自白すべきか否かについて逡巡、葛藤している様子がうかがえる」などと判断し、自白の信用性を認めている。

 こうした文言を読みながら私は、裁判員たちが「殺人にまったく関与していない者があらぬ疑いをかけられた」時の状況を、どうイメージしているのだろうかと思った。

 裁判員に選ばれる人の中で、自身や近しい人が「あらぬ疑い」をかけられて、警察や検察の取調室で追及を受けたという経験のある人は、それほど多くないだろう。冤罪当事者の話をじっくり聞いたことのある人ならばともかく、「やっていない人が自白するわけがない」というのが、むしろ普通の「市民感覚」ではないのだろうか。

 それは裁判員に限らない。冤罪の可能性が極めて強い事件であっても自白調書に引きずられ、「極刑が予想される重大殺人事件であり、そう易々と嘘の自白をするとは考えにくい」などと平気で書く職業裁判官もいるのが現実だ。

 まして影響力が大きい映像の場合で判断する場合は、なおのこと供述者の心理状態について、裁判官や裁判員がもっと知る機会が必要ではないか。

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


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