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長銀破綻とバブル崩壊、今明かされる真相…「失われた10年」を呼んだ一人のリゾート王

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長銀破綻の最大戦犯は杉浦敏介

 それでは、長銀破綻の最大戦犯は誰なのか――。

 長銀は1952年、重化学工業の設備投資といった長期の資金需要をまかなうための銀行として設立された。日本興業銀行(現・みずほ銀行)と日本債券信用銀行(現・あおぞら銀行)と並び、金融債の発行による資金調達が認められており、預金を集めて短期資金を供給する都市銀行とは、明確に棲み分けが図られていた。

 ところが、80年代になると重厚長大産業の資金調達が間接金融(=銀行)から直接金融(=証券市場)にシフトした。興長銀の存在意義が薄れてきた。長期の融資を担当する長銀は、ライバルの興銀に追いつき追い越すために新規分野を血眼になって探した。時はバブルの全盛期で、ゴルフ場やレジャー施設への融資はうってつけの大型プロジェクトに映った。

 その時「環太平洋レジャー基地構想」を掲げて、イ・アイ・イ・インターナショナルの高橋治則氏が登場する。イ・アイ・イへの融資にお墨付きを与えたのは、長銀のドン・杉浦敏介氏である。

 杉浦氏は東京帝国大学法学部を卒業し、日本勧業銀行(現・みずほ銀行)に入行。52年の長銀発足時、浜口巌根氏に宮崎一雄氏と共に引き抜かれ、長銀に移籍した。浜口氏の次の頭取が宮崎氏で、その次が杉浦氏だ。

 頭取・会長・相談役・最高顧問として、長銀のトップに君臨し続けた杉浦氏は、子飼いを役員に引き上げ、長銀を事実上の“杉浦商店”にしてしまった。95年に頭取を退任した堀江鐵彌氏は杉浦氏の縁戚だ。その後任の大野木氏も、早くから杉浦氏がプリンスとして可愛がっていた。92年に相談役を退くまで取締役を34年間務めた。頭取在任期間は7年だが、78年に会長になってからも人事権を放さず、院政を敷いた。杉浦氏は特注のベンツに乗って毎日、本店に姿を見せたという逸話が残っている。

 高橋治則氏は幼稚舎から通う“慶応ボーイ”で、慶應義塾大学法学部卒。母方の縁戚者が、ライオン宰相の浜口雄幸氏で、その次男が長銀の頭取の浜口巌根氏という関係だった。浜口氏と親戚というブランドが、長銀では大いにモノを言った。

 長銀のドンのお墨付きを得た高橋氏は86年以降、自家用ジェット機を使い、グアム、サイパンから、豪州、フィジー、香港、米国、英国などを飛び回って高級ホテルや超高層ビルを買い漁り、「環太平洋のリゾート王」と評された。

 長銀をバックに高橋氏が投資した不動産案件は、最盛期に2兆円といわれた。高橋氏は巨大マネーを蕩尽したのである。長銀の融資額はピーク時の92年にイ・アイ・イ・グループ全体で6000億円超に上り、これが長銀破綻の最大の原因となった。リゾート王が一転して、「長銀を食い潰した男」と呼ばれることになる。

 イ・アイ・イの高橋氏に大手信託銀行や生命保険、ノンバンクが競うように、気前よく巨大マネーを注ぎ込んだ。その意味でも高橋氏は「失われた10年」の引き金を引いた男であった。

 長銀破綻の最大戦犯である杉浦氏は、時効の壁によって立件を免れ、06年1月に94歳で亡くなっている。生前、「長銀が破綻したのは、後輩の経営者たちがダメだったからだ」と語ったといわれている。これでは、杉浦氏の尻拭いをしたがゆえに刑事被告人となった大野木氏らは浮かばれない。

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