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築地市場の意外な歴史…移転が「人権問題」にまで発展、業者に自腹移転強要で大反発の過去

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 また、都市の中心部に魚市場があるのを非とするのは道理ではない、むしろ魚市場はそこにあるべきものなのだ、とパリやロンドンの魚市場を引き合いに出して反論している。

 さらに、魚くずの出す臭気についても、香港の魚市場のようにコンクリートで舗装すれば水で流して臭気は生じない、としている。また、海軍軍医総監を務めて医学博士号を持つ「麦飯男爵」こと高木兼寛による「総べてものは臭きが故に衛生に害ありと云ふことを得ず、余は未だ臭気に依り衛生を害し、病気を惹起したるものを見たることなし」との言を引用するなどして、批判に対する論駁としている。

 このような言論闘争と共に、期限の年を迎えるごとに延期が出願され、移転は先送りされ続けたのである。また、そのなかで日本橋と江戸川の間に桟橋を設けてその上に市場を設置する案や、日本橋中洲や芝浦への移転案なども模索されたが、いずれも実らなかった。

 さらに、魚市場のなかでも非移転派・中洲派・芝浦派などへと分派して、互いに批判し合うなど、まとまりを欠くようになっていった。かくして、多くの人々の思惑が複雑にからみ合うようになり、移転問題は完全に暗礁に乗り上げてしまったのである。

震災後の仮住まいにすぎなかった築地市場

 皮肉にも、この移転問題に解決の糸口を与えたのは震災であった。

 大正12年(1923)に発生した関東大震災によって、日本橋魚市場が壊滅してしまったのである。当初は、元の場所に急造の店舗を建てて営業を再開しようとしたが、東京市はこれを禁止して移転を求めた。同時に、海軍省から築地の海軍造兵廠跡地の借用許可を取り付け、そこに臨時市場を設けることになったのである。

 日本橋の魚商たちも、仕方なくそこへ移り、とにもかくにも営業を再開した。そして、この震災による市場の臨時移転を恒久的なものとするべく、帝都復興案のなかに中央卸売市場の建設が盛り込まれた。

 それから11年の歳月をかけて、昭和9年(1934)に完成したのが現在の築地市場である。専用の鉄道引き込み線をはじめ、冷蔵庫はもちろんのこと、バナナの発酵室や芋洗い場まで設けられており、当時としてはきわめて先進的な施設で「東洋一の魚市場」と呼ばれた。

 その翌年には、正式に東京市中央卸売市場として営業を開始、また、年末には歌舞伎座において「日本橋魚河岸」の解散式が行われた。それによって、魚市場の移転問題は「築地市場への移転」というかたちで名実共に決着を見たのである。

 振り返るに、前の移転問題は、当初は「築地への移転問題」ですらなかった。数十年を経て完全に暗礁に乗り上げ、震災復興に伴ってなし崩し的に解決されたという印象が強い。歴史を紐解けば、そもそも当初の築地市場はあくまで臨時的な仮住まいであったのである。

 もし、震災もなく、東京大空襲で帝都の大半が灰燼に帰すこともなければ、あるいは今でも魚市場は日本橋にあったのかもしれない。
(文=井戸恵午/ライター)

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