麻生太郎副総理の発言が、またもや物議を醸している。朝鮮半島有事で大量の難民が日本に押し寄せた場合の対応について、講演でこう語ったという。
「武装難民かもしれない。警察で対応できるか、自衛隊の防衛出動か、射殺ですか。真剣に考えたほうがいい」
故意の「射殺」は違法行為
確かに北朝鮮をめぐる情勢は、さまざまな事態を想定して、対応を準備しておかなくてはならない状況になっている。想定すべきことのなかには、クーデターが発生したり戦争となって、北朝鮮から人々が難民として流出する事態も含まれよう。多くは陸路で中国や韓国へと移動するだろうが、船で日本海を渡って日本にやってくる人たちもいるに違いない。
その時、難民条約締結国である日本は、条約の趣旨に沿って難民を保護しなければならない。その際には、当然のことながら、一人ひとり検査をして、武器を所持している場合は武装解除させる。感染症などのチェックも行って、必要な場合は治療を行う。保護施設で衣食を提供する。他国が受け入れる者についてはその手配を、日本への定住を希望する者については手続きを進めるなど、やらなければならないことはたくさんある。そうしたすべてついて、あらかじめ真剣に考え準備するのは、まさに「政治の仕事」だ。
朝鮮半島における歴史的な経緯を考えても、日本は難民たちに人道的な支援を積極的にしなければ、国際的な非難を浴びるに違いない。そんなことにならないよう、そういう事態になった時には日本が大いに汗をかくべき時だと、今から確保しておく必要があろう。
ただし、そのために「武装難民」の「射殺」などという選択肢はありえない。警察官職務執行法は武器の使用を限定し、正当防衛や緊急避難などいくつかのケースを除いては「人に危害を与えてはならない」と定めている。故意を伴う「射殺」は、現行法規では想定されていない。麻生発言は、違法行為を選択肢に入れているところで、政治家の発言としては失格だ。
日本の警察は、武器を持った被疑者が立てこもった場合でも、法令に従い、生きたまま身柄を確保し、司法の裁きを受けさせるよう努める。かつてのあさま山荘事件では、後藤田正晴警察庁長官の指示で、人質の無事救出と合わせ、犯人全員を生け捕り逮捕する方針が定められ、そのために時間をかけて作戦が展開された。警察は、殉職者やけが人などの犠牲を出しながら、人質を無事に救出し、犯人5人をすべて逮捕した。
そういう歴史を重ねてきた現場の警察官に、麻生氏は違法行為を犯させようというのか。それとも、裁判などの司法手続をせずに、人を殺害する権限を警察官に与えようというのか。その後政界に転身し、中曽根内閣の官房長官などを務めた後藤田氏が存命であれば、麻生氏を厳しく叱責したことだろう。
容疑者「生け捕り」の意義
ところが、ヨーロッパでテロ事件の捜査で、捜査機関が容疑者を射殺する報道を見慣れたせいか、今回の発言をめぐっても「自分や身内に危害が及ぶなら、なんとしてでも阻止しないと」などと、「射殺」に全然違和感を覚えず、麻生発言を無邪気に支持している人がかなりいる。
他国の、しかも個別のケースについては、どういう事情があったのかわからないので言及しないが、一般的にはテロ事件であっても、容疑者を生きて捕獲できないのは、極めて残念なことと言わねばならない。それですばやく一件落着したように見えても、被疑者に法の裁きを受けさせることができなくなる。取り調べや裁判で共犯者や凶器の入手ルートなどの情報を得る機会もなくなる。容疑者が殉教者になったり英雄視されるのを許すことにもなる。
日本の警察は、地下鉄サリン事件など大がかりなテロ事件を含め、組織的な犯罪をいくつも起こしたオウム真理教の捜査でも、第三者に殺害された幹部1名を除き、容疑のある全員を逮捕し裁判にかけた。これは、法治国家として誇るべきことと思う。裁判で死刑が確定したが、彼らからすれば、さっさと殺されたほうが楽だったかもしれない。けれども、そういう安易な道は日本では許されないことを明確に示した。教祖のていたらくも、法廷で多くの人が見るところとなった。それは、容疑者の段階で「射殺」などせず、生きて捕まえたからだ。