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誰も知らない「恵方巻の起源」のミステリー

文=井戸恵午/ライター
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誰も知らない「恵方巻の起源」のミステリーの画像1恵方巻(「Wikipedia」より/Opponent)

 今でこそ、節分の風習として知られるようになった「恵方巻」。しかし、発祥の地とされる大阪において一般化したのは昭和40年代末頃のことであり、全国的に普及したのは早くても昭和から平成に移り変わる頃のことである。

 そして、恵方巻は大阪における節分の風習としても、決してメジャーなものではなかった。管見の限りではあるが、明治・大正期における新聞や地方の風俗を伝える書物の中に、その名や類似する風習を見いだすことはできなかった。

 一方で、大阪歴史博物館が収蔵する「柴垣コレクション」の中に、昭和15(1940)年に大阪市内に存在した寿司店「美登利」が配布した、恵方巻に関する引札(チラシ)が残っている。そこには「巳の日に巳寿司と云ふてお寿司を食べるやうに毎年節分の日にその年の恵方に向つて巻寿司の丸かぶりすると大変幸運に恵まれるといふ習しが昔から行事の一つとなってゐて年々盛になつてゐます」とある。

 また、同館には昭和7(1932)年に大阪鮓商組合によって作成された同様のチラシも残っているとのことで、これらは現存する恵方巻に関する史料としては最古のもののひとつといえるだろう。

「美登利」の引札は大阪鮓商組合後援会が印刷したものであり、この巻寿司の丸かぶりは一種の販促手段として行われたことがうかがえる。また、その営みは戦後に大阪海苔問屋協同組合や関西の企業人で組織された「大阪昭和会」によって引き継がれ、前述のように全国化するに至ったのである。

 なかには、「土用丑の日」のうなぎに対抗して戦前に行われた恵方巻の風習を復活させたという言説もある。いずれにせよ、海苔や寿司の販促手段として戦前期から盛んに喧伝され定着していった、比較的新しい風習であるといえるだろう。

「恵方巻の起源はお大尽遊び」は本当か?

 一方では、恵方巻という風習の起源について、いまだ決定的な見解は見いだされておらず、諸説が存在する。そのなかで興味深いのは、「花柳界において、お大尽遊びのひとつとして行われた」とする説である。

 近年、インターネット上でこの説を見かけることが非常に多い。これらの言説は主として、前述の昭和7年に発行された大阪鮓商組合のチラシの口上の中に「この流行は古くから花柳界にもて囃されてゐました」とあること、また沓沢博行「現代人における年中行事と見出される意味―恵方巻を事例として―」(『比較民俗研究』23 2009)の中で、藤森秀夫大阪海苔問屋協同組合事務局長(当時)からの聞き取りとして「船場の旦那衆が節分の日に、遊女に巻きずしを丸かぶりさせて、お大尽遊びをさせていたことに端を発するという説」と書かれていることを根拠とする。

 ただ、前者については販促チラシの口上であり、これとは異なる由来を述べたものも別途存在することから、これのみを全面的に正しいとはできないだろう。また、後者に関しても、論文中で聞き取り調査の結果として記されている起源説はほかにもあることから、その聞き取り調査の対象である藤森氏からしてその説を絶対のものとしていないことが、当該論文を読めばわかる。

 恵方巻の風習そのものを快く思わない向きが、「お大尽遊び」について想像をたくましくしながら、その批判の正当性をこの説に求めるというのは、気持ちはわからないでもないが早計といわざるを得ない。なぜなら、ほかの説が存在していることはもちろん、花柳界におけるこの種の風習が行われたことを示す記録、いうなれば文献史料が見いだされていないからである。

明治時代の遊び「夜の節分」とは?

 一方で、明治44(1911)年に心斎橋の出版社・名倉昭文館より上梓された『お座敷仁輪加』という本に、「夜の節分」と題した次のような遊びが書かれている。

 着流し姿で尻を端折り、布団を巻物状に丸めたものを肩に担ぎながら次のような仁輪加を歌う。

鶴は千年 亀は万年 東方朔は八十年
三浦の大助百六つ 如何なる悪魔が来たるとも
この俵藤太がひっつかみ 西の海へとさらり

 ここで「へい」と合いの手が入り、布団をサッと広げて「夜具(厄)を拂いましょう」というオチである。これがどこまで流行したかはわからないが、なかなかシャレている。

 実際、商都・大阪の中核である船場の商人たちは、節分においてさまざまなかたちで験担ぎをした。たとえば、節分といえば「鬼は外、福は内」の声と共に豆をまく。しかし、船場の一部の商家では「鬼も内」と言ったらしい。「鬼(おに)」は「大荷(おおに)」に通じるということでこのように言われたと、明治期の記録に残っている。

 また、大阪ではかつて節分の折にうなぎを食べる風習があったらしい。これは、我が身の長命や商売が長く続くことを祈ったもので、次第に「長いものであれば何でも良い」ということになり、同じ「う」の付く食べ物ということで、うどんを食べるようになったという。

 巻寿司の丸かぶりもこのあたりからの発想なのではと思うが、残念ながら、これもまた明確な根拠となり得る史料が存在するわけではなく、想像の域を出ない。つまるところ、恵方巻の起源については、大阪歴史博物館がそうしているように「定かではない」とするのがもっとも誠実な回答といえるのではないだろうか。
(文=井戸恵午/ライター)

井戸恵午/ライター

井戸恵午/ライター

フリーのライター。主にWEBメディアで執筆中。

Twitter:@idokeigo

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