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ジャーナリズム

天皇が激怒し討伐を命じた事件

文=井戸恵午/ライター
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 これは、テヘロ中佐の独自行動ではなく、第三軍管区の司令官であるハイメ・ミランス・デル・ボッシュ中将が「非常事態」を宣言し、戦車隊をバレンシア市内に展開するなど、一部将官らも呼応する動きを見せた。また、前参謀次長であるアルフォンソ・アルマダ・コミン中将も関与している。

 2.26事件では尉官である青年将校らが中心となっていたが、それとは異なり、より陸軍首脳に近い人々が引き起こした事件であることがわかる。この事件は、2月23日(23 de febrero)に起きたことから「23-F事件」と呼ばれている。

 事件の背景としては、これに先立つ1975年、スペインの国家元首(総統)であったフランシスコ・フランコの死去に伴う王政復古や立憲君主制下における民主化の影響が大きい。

 また、そのなかで、バスクの分離独立を求める過激派組織「バスク祖国と自由(ETA)」によるテロ行為の多発がある。さらには、当該期のスペインは経済成長率が低迷しており、失業者も150万人を超える状況だった。陸軍右派に分類される人々が、これらの「失政」を国家の危機と認識し、かつてのフランコ時代のような「法と秩序の回復」のための「救国内閣」の樹立を求めたことが事件発生の原因といえる。

 しかし、このクーデターは失敗に終わる。その最も大きな理由が、当時のスペイン国王であるフアン・カルロス1世が協力を拒み、かつ自ら鎮圧するべく動いたからである。

 事件発生の第一報に接するに際し、2.26事件の際の昭和天皇同様、まず軍服に身を包んで反乱軍との交渉と事態の収拾のために動いた。国王は彼らの要求を全面的に拒否し、また間髪を入れずに王命を告げる文書を作成して発布した。

 それは、現行法の枠のなかで憲政の秩序を維持する不退転の決意の表明に始まり、クーデター側を明確に「反乱軍」と規定し即時解散を命じる厳しいものであった。その結果、23-F事件は18時間で鎮定されたのである。

昭和天皇と面会後にクーデター発生…奇妙な一致

 この事件も、2.26事件同様に近代的な「立憲君主」であろうとする君主の強固な否定によって失敗に終わったといえる。立憲君主制下において、またクーデターを実施する主体が右派勢力である場合、君主による容認は不可欠である。2.26事件と23-F事件は共に、この君主のコミットメントが得られなかった点が致命的だったといえるだろう。

 なお余談だが、国王クーデターが発生した1960年の4月にはマヘンドラ国王が、そして23-F事件が発生する前年の1980年にはフアン・カルロス1世が、それぞれ国賓として訪日し昭和天皇と面会している。もちろん、その席上で2.26事件について語られることはなかったであろうが、その後の展開を考えると、小説の伏線のようで味わい深いものがある。
(文=井戸恵午/ライター)

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